=====
0.リーフル
紫の眼の〈庶民〉、青の眼の〈修験者〉、黒の眼の〈王族〉、そしてそれらを統べる赤と黒の色違いの眼を持つ〈王〉-〈緑の民〉、リーフルには厳密な〈階級〉があり、各〈階級〉には特有の気質と〈才〉があった。
口がよく回る陽気な〈庶民〉は芸才がある者が多く手先も器用で、実際の手を使う以上に物を動かすことができる〈才〉を持つ。その〈才〉の使い途は、人により体重以上の大岩を持ち上げることから手だけでは行えぬ細工物をこしらえること、旅回りの舞台での芸にまでと様々であった。
寡黙な〈修験者〉は〈道〉を追究する者たちだ。武芸の道か学芸の道という一見正反対のようなことを求めている。どの者も一端の武術をこなすが、武術を生かす任についていない者は、学者として城や街中で教えているものも多かった。〈修験者〉は体の鍛錬を怠らずしばしば申し合いを行なったが、瞬時に離れた場所に移動できる〈才〉を使うそのさまは他の者の目に止まらないほどの激しいものであった。
そして〈王族〉は祭祀と統治を預かる。〈王族〉の〈才〉は、隠れたところにあるものや離れたところでの情景を見、音声を聞くことである。様々な情報を得て適切な政を行なうのが〈王族〉の務めであった。〈王〉は-さらに今一つの〈才〉を持つ。それは他の者の心の中の声を聞き、心の中へ声を届かせるというものであった。それゆえ、〈王〉は最終的な裁判官の務めも担っているのだった。
階級間の結婚は可能だったが、階級の違う者の結婚は互いの理解が難しいだけでなく、子が生まれると養育が困難なためあまり見られない。同様に、親と〈階級〉の違う子どもが生まれると、その子は養子に出されるのが通例であった。
それが、リーフルという民であった。
1.世継
王の〈世継〉が同年で二人も出るのは、異例なことだった。
先に生まれた方は女子でレーガ、その二ヵ月後に生まれた方は男子でレディンと名づけられた。ともに現王のいとこの子どもだったが、このくらい離れた血筋に〈世継〉が出ること自体は珍しいことではなく、すでに老境に入り妻に先立たれ子もいない王に後継者が生まれたのは喜ばしいことだった。ただ、レディンの〈王の眼〉は通常見られるように右だったが、レーガの〈王の眼〉は-左だった。それは〈危機相〉と言われ、国の苦難のときに現れるとささやかれるものであり、そのため国が乱れると密かに疎まれるものだった。地方の領主の好き勝手なふるまいや、頻繁な異種族エリーの侵攻によって、国はすでに乱れていたのであるが-。
二人は互いにあまり接触したことがなかった。もちろん顔を知らないというわけではなかったが、学問所での講義の際でも、二人はそれぞれの『取り巻き』と護衛に囲まれ、時間もずらされていたため、出入り口ですれ違うくらいだったのだ。それに二人は日常生活もかなり異なり、そもそも接点が少なかった。
活発なレーガは〈王族〉には珍しく体を動かすことを好み、しばしば講義をすっぽかして城の〈修験者〉たちの鍛錬所に入り浸り、剣や乗馬を教わったりしていた。
一方レディンの方はおとなしい子どもで、産褥で死んだ母親に似て体が弱く、しばしば熱を出して寝込み周囲を心配させた。長じてもそれはあまり変わらず、反対派からはあの子は長生きはできないだろうとあからさまに囁かれていた。
二人が育っていくにつれ、二人のどちらが王になるべきかという議論がかまびすしくなり、それぞれを支持する派は水面下で様々な陰謀をめぐらした。レーガの両親はあるとき相次いで亡くなり、毒殺説がささやかれた。レディンの父親も謀反の疑いをかけられて失脚し、叛意はのち晴れたとはいえ、地方に飛ばされて失意のうちにこれも早くに亡くなった。『〈修験者〉の生まれぞこない』と言われる王女と、病弱で王の任に堪えずと言われる王子、という二人の〈世継〉をめぐって、宮廷内はまさに二分されていた。
そんな中、病の床にあった王がついに亡くなった。
2.玉座
廷臣たちが謁見の間に入っていくと、二人の姿があった。今までの大きな王の玉座はどこかに片付けられ、その両側に置かれていた同じ大きさのやや小ぶりな〈世継の座〉が二つ並べられており、二人がそれぞれすわっていた。
「そろったようだな」レディンが口を開いた。「知っての通り、昨日王が亡くなられた。早急に決めねばならぬことがたくさんあるが」レディンはちょっと言葉を切った。「一番の問題は誰が王になるかであろう」
レディンは廷臣たちを見回した。一同の間に緊張が走る。「王からは特に御指名はなかった」
「そこで我らは協議した結果-」隣で物憂そうにすわっていたレーガが続けた。「共に王位に就くことにした」
一瞬の沈黙の後、大騒ぎとなった。
「-静まれ」レディンが片手を挙げていった。「異議があるなら申せ」
「‥おそれながら‥それには前例が‥」一人の廷臣が声をあげた。
「そうだな」レディンは落ち着き払って答えた。「私も史書をいろいろ調べてみたがそのような例はないようだ」
「でしたら‥!」
「だが」レディンは語を継いだ。「何事にも初めというものがある。我々が今後の『前例』となればよい」
まだ言い募ろうとした廷臣をレディンはその目で射すくめるように見て黙らせた。「他には?」
他に出た様々な些細な異論・反論を、レディンはことごとく、にこやかな笑みを浮かべながら簡単に切って捨てた。病弱でおとなしい王子、と思って軽んじていた者たちはその様に気圧されていた。
「我らはいまだ若年、そのうえそれぞれの資質に不安を持つ者もいるだろうが」ややあって口を開いたレーガの目にはおもしろがっているような色が浮かんでいた。「そのような『半人前』だからこそ、二人共に王になれば一人分とも言えよう」そして表情を改めて続けた。「我が国が今どのような状態なのか知っているか。地方の領主どもは勝手な要求を掲げ、エリーが国境を侵し国の奥深く入ってくることも珍しくはない。宮廷でごちゃごちゃもめている場合ではないのだぞ」レーガはしばしば都からの視察団や討伐隊に同行して地方を見ていた。政治嫌いで遊び歩いているだけと思われていたのだが-。「そのような折に対処する頭がふえるのは悪くはあるまい」
「では、実務を片付けるとしよう」二人は立ち上がりかけたが、「-ああ、そうだ、もう一つ」レディンはすわり直した。「我らの後継を気にする者もいるだろう。それについても伝えることがある」
謁見の間に新たな緊張が走る。いろいろな思惑がからみ様々な下工作が行なわれていたが、二人の若者にはいまだに正式な婚約者の発表はなかったのである。
「いろいろな向きから話はあったが、今特定の者に『利益』を与えるのは得策ではない」レディンは皮肉をちらりとその言葉に潜ませる。「細かい段取りは追って詰めるとして-」
レーガが言葉を受ける。「我ら二人で結婚することにした」
再び巻き起こる喧騒の中、二人は素知らぬ顔で今度こそ立ち上がった。「-以上だ」
3.意思
それは少し前のこと。
レーガは私室のバルコニーのあたりにふと人の気配を感じて立ち上がった。扉窓を開けて見ていると、バルコニーの手すりのところに手が現れ、一人の男が壁を這う蔦につかまりながら息を切らせて上ってきた。
「-やあ」レディンはレーガの顔を見ると笑顔で言った。
「そんなところから何の用だ?」レーガは眉をひそめながら言った。
「君とゆっくり話したいことがあったもんでね。でも正面から行くといろいろと面倒だし」レディンは笑った。「しかしこれはちょっと無用心じゃないか? 僕でも簡単に入って来られるんだから-いやあまり簡単でもなかったけど」
「そうだな」レーガは慣れないことをして肩で息をしているレディンを見た。「こっそり抜け出すのに丁度良かったのでそのままにしてあるのだが。とりあえず中に入ってすわったらどうだ」
「いいのかい?」
「ああ」
「ありがとう」レディンはレーガが出した飲み物を一気に飲んで息をついた。
レーガは何も言わず、黙って問いかけるような目をしてレディンを見ていた。改まってレディンは立ったままのレーガを見上げて言った。
「僕と手を組まないか?」
「-なぜ?」
しばらくの沈黙ののち、レーガは問うた。何について、とは聞かなかった。
「宮廷の中はご存知の通りだ。特に王がお倒れになってからは、皆職務そっちのけで勢力争いだ」
「嘆かわしいことにな」
「そんな輩でも、困るのは根こそぎ一掃してしまうわけにはいかないことでね」
「確かに」
「この状態で僕らのどちらかのみが王位に就けば必ず内乱が起こる。この国ではかつてなかった『内乱』がね」
王位に就き得る同世代の〈世継〉が存在するという事態は聞いたことがなかった。
「ただでさえ内憂外患が溢れているというのにな」
「そうだ。今は宮廷で勢力争いなどしている場合ではないのにだ」
「だから、一致協力して事に当たらねば-だな?」
「君は話が早くて助かるな」
「私は面倒なことが嫌いなだけだ」
「じゃあ、そういうことでいいかい?」
「ああ」
レディンはまだ何か言いたそうではあったが、「では-」と長椅子から立ち上がりかけ、ちょっと立ちくらみを起こしてよろめいた。
「大丈夫か?」
レーガはレディンを支えようと腕をのばし-そして二人の手がふれあった。
「-あ」
「-え」
二人はさっと手を引き、驚愕の表情で互いを見やった。しばらく二人とも無言だった。
「‥なるほど、こういうことか」
「王が僕らをあまりお側近くに召さないのもわかった気がするな‥」
そしてどちらからともなく、もう一度手を差し出す。
「いいのかい?」
「ああ‥」
今度のふれあいは長かった。
少女は崖の上に立っている。眼下の人々を感情もなくただ見下ろしていた。ふとある一人に目がとまる。その顔にわずかばかりの、満足げな笑みが浮かぶ。
少年は崖の下にいた。崖の上の立ち姿を見上げる。憧れを込めた真っ直ぐな瞳で。
少女と少年の視線が絡んだとき-ふいに二人の間の距離が詰まる。周りのものは消え、二人は顔を突き合せるように向かい合う。少年は間近になった少女の顔を見て、心の底から嬉しそうに笑いかける。少女は少年の全開の笑顔を見て、やや驚きながらもそっと受け止めるように微笑を返す-
「〈王〉の〈才〉がこんな風に働くとは意外だったな‥」レーガは深く息をついて言った。
「そうだね‥」レディンも大仕事を終えたばかりのような声を出していた。
「だけど嬉しかったな。君も僕を見ていたとは思わなかったから」
「お前の方こそ-」
「でもこれで第二段も続けて発動できるね」
「-連続で行くか?」
「そう。衝撃で混乱しているうちに話を進めてしまおう」くすくす笑いながらレディンは言う。
「相変わらず人が悪いな」
「‥僕にそう言う人はあんまりいないんだけどな。その通りだけど」
「他の奴らはお前をよく見ていないだけだ」
「-で、君はいいんだね」声が真剣になる。
レーガも振り返ってその眼差しを受け止める。
「-異論はない」そしてふっとその表情を緩める。「お前こそ、本当にいいのか?」
「もちろんだよ」満面の笑みが広がる。いつもの外面の笑みの奥の、心からの笑みで。
互いに、言葉で確認するまでもないことはわかっていたけれど。
*
手がふれ、肌がふれる。体の接触とともに、心がふれあう。互いの心の中の思いが届き、わかってしまう。その怖ろしいまでの、充足感。互いに〈王〉の〈才〉を持つ者どうしの、むき出しの心の接触。
優しい仮面の下の、冷静な顔。その誰よりも怜悧な様に惹かれ、好ましいと思った。これなら任せられると思い、信じた。そのさらに奥の熱い、激しい思い。絶え間なく注ぎ込まれるその思いに、全身が包み込まれ、浸る。どうすれば良いかわからず泣きたいほど、余りに心地よく、痛いほどの嬉しさに、溺れる。
ずっと思っていた。それは手の届かない高みにあると。あたかも天空に輝ける太陽のように。毅然として立つその姿を見るのが好きだった。凛とした厳しい外見の中の、弱い者を守ろうとする優しさも、また。その微かなとまどいさえも愛しく。この手の中にその優しさを包み込もう。返ってくるものがあると期待もせずにいたのに。それでいいと思っていた。
「本当に、私でいいのか-」
「君が、いいんだ」
その囁きは、言葉にせずとも通じて。歓喜の波に溺れる-。
「君には一つだけ言っておかなきゃいけないことがある」
「-」
「僕には時間がないんだ」
「-言うな」
「いや、聞いてもらわなきゃならない。期限はおそらくそんなに遠い先ではないだろう。なるべく早くに国が落ち着くように努力はする。そのあと君と次代に安心して引き継げるようにするのが僕の役目だと思っている。できれば二十年と言いたいところだけど、せめてあと十年はもつように-」
「期限の話など聞かぬ!」レーガは激しく遮った。レディンはちょっと目を瞠ってその顔を見た。いつも生気にあふれているレーガだが、こんな風に感情を露に見せるのは稀だ。
「君は優しいな。でも聞いてもらうよ?」レディンは穏やかな笑みを浮かべて言う。
「未来のことなどわからぬ。勝手に決めるな。そんなことより今をどうしていくかだけを考えろ」
「もちろん考えるよ。それは、一番に。だけどいつも覚えておいてくれ。僕にはあまり時間はない」
「わかっている‥! 二度と‥それは言うな」
「わかった‥」
「‥お前はずるい」(いつも、私より先に。)
「‥うん」
否定はしない。謝りもしない。事実を冷静に告げる。笑みは優しい。残酷なほどに。
「僕は幸せだよ?」(本当に、悲しくはないのに。)
「わかっている‥」そう、今は浸ろう。今しばらくのこの時に。「わかっている‥」
4.過去
母は僕が生まれて間もなく亡くなったという。もともと病弱な人だったらしいが、僕もそんな母の体質を受け継いだようにしょっちゅう熱を出して寝込んだ。
「どうした? 早く良くなるのだぞ」
父はよく見舞いに来てそう言った。でも、僕にはわかってしまったのだった。熱でぼんやりした意識の中でも、父がいらだたしい思いでいることを。死なれては困る、他のものには代えられない大切な『手駒』なのに、なぜこの子はこんなにも弱いのだろうと。父は僕が生まれたとき喜んだという。〈王〉の父として権力を振るうことを夢見て。その露骨な野心が災いして父は地方官に飛ばされてしまい、体を壊してやがて亡くなった。それからは、僕を利用できると思った親族や様々な者たちが僕の回りに集まるようになった。父よりもさらに愚鈍で下心に満ちあふれた連中が。
一人ぼっちで少し寂しかったけれど、仕方のないことだと思っていた。僕は次第に身につけていった。にこにこしておとなしくしていること。自分の心は見せず、周りをよく見ること。誰が自分の『役』に立つか、今と、そして将来に。心を偽ることは難しいことではなかった。誰もが僕のことを病弱で大したこともできない子どもだと思っていたから。僕も他人はいずれ自分が使う『手駒』でしかないと思うようになっていた。真っ直ぐに立ってしっかりとした目つきをしたあの子を見るまでは。
最初に目に入ったのはその立ち姿だった。なんて綺麗な立ち方、と。それから顔が目に入った。見事なまでの無表情。そっと心の表層を探ると、鉄壁の防御壁。その心の様を映した、周りを全く問題にしていないように超然とした顔。周囲には無意識に他を圧する威厳のようなものが張りめぐらされていて、話しかけにくい雰囲気が漂っていた。うまいやり方だと思った。それでも時折そばを通りかかる者に声をかけられると、礼儀正しく時には微笑すら浮かべて返事をしていたが、その目は笑ってはおらず、言葉は概して短く素っ気なかった。何人めかの時に、ふとその滑らかだった心の表面に小波が立った。相手は、こちらからでもその低い性根が感じ取れるような男だった。それまでの無表情にわずかに嫌悪の表情を浮かべ、相手の長々しい言葉を遮って低く何かを言うのが聞こえた。その声に含まれる微かな〈才〉による威圧に押さえ込まれ、その男は長広舌を中断し、そそくさとそのそばから去っていった。目の前の不愉快な存在が消えると、その顔はまた最前の無表情に戻っていた。
真っ直ぐに立て。しっかりと見据えろ。それは〈修験者〉の剣の師範の言葉だった。
剣の鍛錬をするのは楽しかった。自分は〈王族〉だが例外的に剣技に優れているのかも、と思ったこともある。だが、やがてわかってしまった。相手をしてくれる〈修験者〉が巧みに-非常に巧みに、自分に気取られぬように『負けてくれている』ことに。ある日、いつも相手をしてくれる年配の者が手空きではなく、たまたま比較的若い者とやりあったことがあった。相手は最後に鋭い突きをかけて自分の腕に傷を負わせ-そのときの「しまった!」という狼狽。それで、わかってしまった。思えば当たり前のことだった。自分は〈王族〉、しかも〈王〉になるべき者。剣技が〈修験者〉に敵うはずもなく、ましてや傷つけてはならぬ身。身体だけでなく、その矜持をも。〈修験者〉が感情を見せぬことに長けているとはいえ、人の心を量るのが務めとなる身。いまだ幼かったとはいえ-。
レーガが王に辺境視察への参加を願い出たのは、城にいるのはあまりにうっとうしくなっていたからだった。人の心がごちゃごちゃと集まっていないところへ行きたかった。もっと広い世界を見ることもしてみたかった。反対するかと思っていた王は意外にもすんなり許可をくれた。レーガは喜びつつも、やや驚いて王の顔を見た。そういえばこんなに近々と王の顔を見たのは久しぶりだ。老いた王の顔には疲れたような、羨ましそうな表情が浮かんでいた気がする。今にして思えば、あの人はきっと孤独だったのだろう。そのときは自分の喜びに気をとられていて、感じた微かな憐れみはすぐ忘れてしまったけれど。
両親が相次いで死んで以来、家はますます居心地が悪くなっていた。やたらとちやほやされたり、お節介をされたり、自分の代わりにと嘆き悲しまれたり憤られたりがうっとうしかった。心を探るまでもなく、たいていは自分を良く見せようという浅薄な考えだけで。さっさと結婚させて子を作らせて忙しくさせておけばよい、と早くも考えている者もいた。自分の心を隠すのは難しいことではなかった。まとわりつく『思い』を無視するすべも早くに身につけた。それでも『思い』を絡みつかせてくる時は、気を張って背筋を伸ばし、正面から見据えてやると大概の者が気後れして自ら目をそらした。宮廷にはそんな者たちしかいないと思っていた。静かで思慮深いあの子以外には。
何かの宴の時だったか、ほとんどの者が立ってものを口に運んだり談笑しているなか、立っているのが体にきついのか、部屋の隅にひっそりとすわっていた。それでももちろん声をかけに来る者はおり、常に微笑みを浮かべながらそれへは丁寧に答えているようだった。そっとその心の表層にふれると、微笑みの仮面の裏で冷静に値踏みをしているのがわかった。「これは使えない」とさっさと切り捨てていたり、「少しは役に立つ」と多少評価していたり。判断はさっさと下していたが、どの者にも同じように表面はあくまでにこやかに応対していて、相手には全く気づかせていない。たいしたものだな、とちょっと感心する。ただ、ある者がそばに寄ってきたときだった。過去に何かあった者が懲りもせずすり寄って来たらしい。穏やかな微笑みが、一瞬酷薄な冷笑に変わった。次の瞬間にはもとの笑顔に戻っていて、傍からはわからなかっただろうが、その一瞬にひらめいた〈才〉による断罪の宣告に、その者はよろよろとそばを離れていった。
*
学問所へ行くのは楽しかった。学問に身を捧げている物静かな〈修験者〉の老師たちに学ぶのは、常に下心を見抜くためにしている緊張とは全く違う穏やかな時だったから。そんなある日、学問所からの帰り道にあの子を見た。〈修験者〉たちの鍛錬所からの帰りか、肩に木剣を担いでいた。前に自分より少し年かさの少年が二人いた。
「おい、〈修験者〉の生まれぞこないが通るぜ」
少年たちがからかう声を少女にかけた。レーガはちらりとその二人を見たが、無視して通り過ぎようとした。なおもからかいの声を投げつける少年たちにレディンはかっとなった。
「君たち、あの人に謝りたまえ!」
レーガはちょっと驚いて立ち止まった。やや小柄なその少年が義憤にかられて立っていた。その目に込められた瞋恚の炎に年かさの少年たちがたじろぐのがわかった。だがまだ少年たちも年端がいかぬゆえ、〈王〉の怒りに対する怖れよりその場の自分の腹立たしさが勝っていた。
「なんだと、棺桶に片足突っ込んでる死にぞこないが」
その言葉が終わらぬうちに、ダン!と石畳が打ちつけられる激しい音がした。レーガが肩に担いでいた木剣の柄で地面を打って、少年たちを見据えていた。
「お前たち、誰にものを言っている?」
静かな声だったが怖ろしい『気』がこもっていた。そして急に心が鷲掴みされるような恐怖を覚え、少年たちは逃げ去っていった。
「-まったくあいつらはどうしようもない奴らだった」レディンは吐き捨てる。
「まだ覚えていたのか?」レーガはちょっと笑いながら言った。
「当たり前だ。最近おべっかを使いに来たじゃないか。閑職をあてがって、下らない上申書が来たら即刻つぶしてやっている」
「容赦がないな」
「本当に下らないものしか上げて来ないしな。ああ、たまにいいのがあると思うと、部下の書いたものだから、そういう部下はすぐ引き抜いて栄転させてやるんだ」
「目障りなら遠くに飛ばそうとは思わないのか?」
「地方官が迷惑するじゃないか。それより目の届くところに押し込めておいて悪さをしないように見張っておく方がいい」
「お前は執念深いなあ」
「‥君を馬鹿にした輩だぞ。君が慈悲深くお目こぼししてやろうとしたのにつけこんで」
「別に相手をするのが面倒だっただけだ。ま、お前に対して許せないことを言った愚か者どもだから自業自得だがな」
「あれは本当ことだもの。君は僕のことで怒ってくれたね」
「-言って良いことと悪いことがあるんだ」
「君は本当に優しい‥」
5.視察
レーガが辺境視察から帰還した。
「-以上だ。あとで報告書を作っておく」
「わかった」
二人が共に王となって数ヶ月が過ぎた。晩年病の床にあって政務が滞っていた前王の治世の末期のころに比べて、宮廷の仕事は飛躍的にはかどるようになっていた。遠出ができないレディンにかわって、レーガは地方の視察や遠征で城を空けることも多かったが、二人が共に城にいるときは二倍、どんなに厳しい評価をする者でも一・五倍は以前より速く決裁が下りた。二人は書面を一読して自分ができるものは自分で処理するが、相手の方が得意な分野だと思うと互いに回し、うまく仕事の分担をしていた。大抵はどちらかのみが署名し、王印を二人の執務卓の間に置いて共同で使いあっていた。王印も二つにしようという案もあったが、双王ともそれは却下した。王の権威はあくまでも一つ、として。ときに双王が共に認め、命を下しているという権威を示す必要がある場合は二人ともが署名をすることもあった。初めは多少不慣れなこともあったとはいえ、二人は一般的にも仕事が速かった。
「君はデスクワークも思いのほか有能だと驚かれているよ」レディンがちょっと仕事の手を休めて言う。
「面倒だからな。さっさと済ませるに限る」レーガは素っ気無く答える。
「君の報告書は〈修験者〉の司令官なみの簡潔さだよね」
「ふん。こいつらのようには書けんからな」レーガは従軍した〈庶民〉の物資調達係の提出した、恐ろしく分厚い報告書の方に手を振った。
「うん、あれは読むのが大変だった」〈庶民〉の文章は無駄な修飾語が多いためやたらと長く、報告書を出させると恐ろしいものになる。
「これはお前に頼む」レーガが一枚の書類を回した。
「‥これは君の管轄では?」異種族エリーとの和睦の関係書類だ。
「内容は確認した。問題はない。署名だけ頼む」
「?」
「-ああ、お前は知らなかったか。エリーは男性優位主義だ。女王の名だと難色を示すかもしれないからな」
「でも、交渉は君がやったのだろう?」
「王には子がなく、私が交渉を任せられていると言ったら仕方なくな。嘘は言っていない」
レディンは苦笑しながら署名する。
そうやって二人で仕事をし、一段落ついたときだった。
「ちょっといいか?」レーガの言葉にレディンは顔を上げた。
「何だい?」
「十日前はお前の誕生日だったな。間に合わなくて済まない」レーガはその頃まだ地方視察から帰っていなかった。
「いや、覚えていてくれただけで嬉しいよ」レディンは心から嬉しそうにやわらかく笑う。
「-手を」レーガが左手を差し出す。
レディンはちょっと眉を上げた。体をふれあわせることの意味はお互いに十分知っている。
「何を?」
レーガは黙って手を出している。何か伝えたいことがあるのを察したレディンも右手を出し、二人の手が合わさる。ふいに-。雄大な風景が目の前に開けた。見渡す限り、地平線まで続く草原。その只中で、空を朱に染めながら落ちていく夕陽。頭上はすでに藍色に変わりつつあるが、わずかにたなびく雲は金に赤に彩られている。
「正確に再現できているか自信がないが-」レーガの声が聞こえる。「-お前にもこの光景を見せたかった」
「‥素晴らしいね」レディンもそっとつぶやく。「ありがとう。素敵な贈り物だ。そしてこんな素晴らしいものを見せてくれる君に感謝を」
「気に入ってくれたなら良かった」
外から人がやってくる気配に、二人は組んでいた手をそっとほどいた。
*
レーガはしばしば城を空けた。そのころは王が『視察』としてにらみを利かせねばならぬ地方が多く、実際に武装隊を率いて行って『討伐』『鎮圧』をせねばならない場合も珍しくはなかった。戦自体は双方の側の〈修験者〉の部隊が行なうのだが、レディンはそんな地方にレーガが行くのがいつも気がかりだった。
「まさか最前線に出て剣を振り回しているわけではないぞ?」レーガはなだめるように言う。
「では、これは何だ?」レディンはレーガの腕の傷跡を指して言う。
「流れ矢が飛んでくることもある。それにかなり前の古傷だ。とっくに直っている」
「じゃあ、こっちは?」今度行く前にはなかった新しい傷を指差す。
「町の民の中には王が来ると自分たちが罰せられると誤解している者もいる。〈庶民〉が投げる物などたいしたものはない」
「しかし‥」
「戦が終わった後に顔を見せるのは〈王〉の務めの一つだからな」
王の表向きの務めの主たるものは、戦の後の交渉事だ。レーガはその務めもきっちりこなしてくる。
「私は〈王〉だ。自分の場は心得ている」
「それに」レーガは苦笑いをしながら言葉を継ぐ。「私には宮廷にいる方が大変なんだ。あんな妖怪どもの相手をしている方が余程疲れる」
「‥妖怪かい」レディンも笑う。
「そんなものだ。お前の方が余程大変だ」レーガはレディンにうなずく。「だからそんなに心配をするな」
*
『親征』-王が辺境視察や動乱鎮圧に赴くのは、レーガに限ったことではなく、実は珍しいことではない。情勢が不穏であればあるほど、〈王〉が必要になることがある。しかしその王の重要な務めの一つは、決して記録に残されることはない。王の〈才〉の使い方-それは〈王〉だけが知っていることだった。
西部は不安定な地方だった。しばしば領主同士の争いがあり、その勢力版図はめまぐるしく変わっていた。そんな中、一介の小領主から周囲の弱小の領主の土地をじりじりと併合し台頭してきた男がいた。まだ年若いその男の名はアレンディーエンと言った。困窮している領を『経済的保護』するとしての併合やら、「王に対して反逆の意あり」としての討伐やら、理由はいろいろであったが、時に穏やかに、時に強引に、その領地を確実に大きくしていた。要注意な地方なだけに、レーガは西部をこれまでもたびたび訪れていた。
「アレンディーエン、寄せてもらうぞ」
「王のお越しは大変光栄でございます」
「少々ざわついているようだな。こんなときに迷惑だろうが、すまないな」
「いいえ、こちらの方にはお気遣いなく。ただ少々人手が少なくなっておりますときで、十分な接待ができないのではと危惧している次第で」
「構わぬ。急に来たのはこちらだからな」
ここは宏壮な領主の館の入り口である。レーガは出迎えに出た領主とのんびりと挨拶を交わしていた。必要以上に長く感じられるほど。
「さあ、どうぞ中へ。玄関先とはいえ、物騒でございます。街中は今恥ずかしながらあまり落ち着いているとは言えぬ状態でして」
「そうだな」
レーガもうなずき、供の者に館に入るよう合図した。そして肩越しにちらりと背後を見やった。通常の者が乗るペリイ馬より大きなパール馬に乗ったレーガは頭半分ほど他の者に抜きん出ていた。そのため周囲からはここに〈王〉がいるということは遠目にもよくわかっただろう。ゆっくりとレーガは馬の向きを変え、その一行はアレンディーエンの館に入った。
いつも優雅な物腰を崩さず、王に対しても余裕たっぷりな応対ぶりを見せるアレンディーエンであったが、今回はやや落ちつかなげな素振りが見えていた。レーガはそれは気づかぬようにその饗応を受けていた。
夕餉の宴がほぼ終わりにさしかかった頃、レーガはふと動きを止め一点を見つめる目つきになった。アレンディーエンも同様な表情になる。
「-来るぞ」
「わかっております」
「正門の方は囮だな。人数は多いが〈庶民〉が多数混ざっている」レーガは目を据えたまま指摘する。「本命は西門だろう」
同じものを〈見て〉いたアレンディーエンはうなずき、配下に素早く指示を送った。
「アレンディーエン」迎撃の指示が完了した頃を見計らってレーガが声をかけた。「ちょっと見てくれ。これは誰だ?」
レーガはアレンディーエンの方に右手をかざした。アレンディーエンは息を呑んだ。王にふれるのは禁忌。だが王の方から求めているときは-。アレンディーエンはためらいがちに手を伸ばした。レーガは片目だけをちらりと動かしてその手をつかんだ。途端に視界が反転したように変わる。自分一人で〈見て〉いた光景より段違いに広く鮮明な映像が広がる。街中のとある一軒の家の部屋の中が見える。そこに壮年の一人の男がいて、周囲には護衛と思われる者が二、三人。
「こんなところにいましたか‥」
「これは?」
「今度の騒動の黒幕ですな」
「やはりそうか。ちょっと引っかかる『気』があったんでな」
「すぐ確保に向かわせます」
「ならば-」
レーガは相変わらず一点を見据えたまま、あいていた左手をわずかに握るような仕草をした。〈才〉による視界の中で護衛がふいに崩れ落ちる。驚いたように立ち上がった男も同じように倒れた。
「-楽にいくようにしておいた」
部屋の中に手の者が入ってきたのを確認して〈視界〉を閉じ、手を離す。アレンディーエンも知らずつめていた息を吐き出し、改めて〈王〉を見た。
「さすがですな」
レーガは肩をすくめた。「大したことはない」
部屋の外が騒がしい。
「何事だ」
アレンディーエンが質すと、
「申し訳ありません。少し入り込まれまして-」
突然、部屋の中に三人の〈修験者〉が出現した。明らかに〈修験者〉の〈才〉を使ったその現れ方-〈修験者〉は〈修験者〉相手以外にその〈才〉を用いてはならないという禁忌を犯しての行為は、相手方が切羽詰っていることを思わせた。だがそこまですると思っていなかった味方の反応は遅れていた。
「お命もらいうける!」
剣を振り上げた刹那、それまで動かなかった片目-赤の眼が動き、レーガは左手を握り締めた。襲い掛かった三人は電撃に打たれたように棒立ちになり-そのまま動きを止めた。
そのとき部屋にレーガとアレンディーエン側の〈修験者〉が駆け込んできた。
「遅い!」アレンディーエンは一喝した。「王。お怪我は-」
「ない」
レーガは短く答え、取り押さえられた襲撃者の方を見やった。その顔は後悔するようにこわばっていた。
「夜分失礼します」
「入れ」
諸々の後始末を終え、報告をしにレーガの部屋を訪れたアレンディーエンは少し眉を寄せた。いつも隙なく人を立って迎えるレーガが、疲れたように長椅子に寝そべったままだったからである。
「今回はお前の館を利用してすまなかったな。私を餌にすれば釣れるだろうと思ってな」
「私も王がいらっしゃると聞けば色気を出してくると踏んでおりましたので」
お互い様だな、とにやりと笑ったその顔はもういつもの顔だった。
「ここならば一番備えが厚いと思ってな」
「わざと時間をかけて街中を通って来られましたな」
「気づいていたか」
レーガはふと真顔に戻って聞いた。
「あの者たちの容態は」
立ち尽くし誘導されねば動くこともできなかった三人の襲撃者たちのことだった。
「二名はあれから程なく心ノ臓が止まりました。後の一人はいまだに何も言えぬ状態だと」
「そうか。‥心を砕いてしまったな。あいつならもっとうまくやったろうが‥」
後半は独り言のようだった。
「お側近くまで襲撃者を近づけてしまった当方の不手際、誠に申し訳ありません」
「それはいい」
レーガは疲れたようにつぶやいた。「すまんな。今日は少々疲れた」
「では、失礼いたします」
アレンディーエンは一礼して部屋を辞した。レーガは目の上に手を置いて立ち上がらなかった。
翌朝。
「今日こちらを発つ。いろいろと世話になった」
アレンディーエンは顔を上げた。乱の首謀者の取調べに立ち会わず早々に発つということは-。
「そなたに任せる。問題なく片付けてくれると信頼しているぞ」
門を出ると、街中はまだ何となくざわついているのが感じられた。レーガは門前まで見送りに出てきたアレンディーエンを振り返った。
「置き土産をしておこう」
ふわりと暖かな風が吹いたように感じられた。緊張していた心がほっと解きほぐされ、安堵の思いが広がる。穏やかに惜別の辞を述べるアレンディーエンにレーガはちょっと苦笑する。
(そなたでもか-)
そして去っていった。
都に戻るとほっとする。地方が荒れていても、都には穏やかな「気」が満ち、人々は平穏に暮らしている。それは常に都にいるレディンが王の〈才〉を絶えず注いでいるからであった。王が辺境視察や反乱鎮圧に赴くのは、荒れた人心を鎮めるためもある。ただレーガは人心を操作することを好まず、なるべく自然に解決させるように努めていた。結果自らの身辺に危害が及ぶことも多かったのであるが。
王は人の心を砕くことも出来るが、本来の務めは人心を穏やかに保つこと。双王が地方と都、両面から人心を意図的に導いていることを知っている者は当人たち以外には、いない。
6.宮廷
「私は王になるつもりはなかったよ」
「なんだって?」レディンは驚いたように顔を上げた。
「お前が王になって、私はその補佐をやればいいとずっと思っていた。王としての務めは好きになれそうもなかったし、私は自分が王に向いているとは思わなかったからな」
「もし君が一人だったら?」
「それはなっただろう。この眼を持つ者に選択肢はないからな-普通は」
「でも二人だったから?」
「そうだ。だが相手が無能者だったら違うぞ? お前だから譲って良いと思ったのだ」
「お眼鏡にかなって光栄です」レディンはちょっとふざけた口調でそう言って、その手に口づける真似をする。「君に認められる人間で良かった」
「私ががさつなだけだ」
「君が〈修験者〉たちと過ごすのが好きなのは知っているけど」レディンは苦笑しながら言った。「‥君は全然、自分をわかっていないね」
「なにがだ?」今度はレーガの方が驚いたように問い返した。
「君には〈王〉としての威厳というか-カリスマがあるよ」レディンはまぶしそうに言った。「自信たっぷりで生き生きとしていて美しくて」
「美しくなぞ-」
「美しいよ。内側から光があふれるようで。僕はいつも羨ましかったよ。君は僕の憧れの的だった。決して手の届かないものだと思っていた-」
手が届かないのはお前の方だった。いつも穏やかな笑みを絶やさない顔。だがその下の、冷静な計算と智謀のある酷薄なまでの冷徹な顔。だがそれはいっそ好ましかった。敵わないかもしれない、と初めて思った。この男になら任せてもいいと思っていた。表面は追従の笑みを浮かべ、心を探るまでもなく底の浅い陰謀を企む者たちに比べれば。それでも心を探れば予想よりもさらにひどく浅薄な心根にうんざりする日々の中で。
ただ、いつの頃からか気づいた。氷の素顔のさらにその奥に、誰にも踏み込ませない鉄壁の防壁に守られた領域があることに。その中の本当に優しい顔、熱い思いは秘されていて、あのときまでは気づかなかった。あの一瞬で、完全に魅了されたのは私-。
*
「-明後日は裁判の日か」レーガが予定を見ながらつぶやいた。
「ああ。君は明日から地方の視察に出るのだろう?」
「いや、少し延期することにした」
月に一度の裁判の日、このところレーガはその前後は都にいることが多かった。そしてレーガは自分が都にいるときはたいてい自分で裁判を担当するのだった。
「君は優しいな」
レーガは答えない。答える必要がないとき、答える気がないとき、レーガはいつも何も言わず、表情も変えない。〈修験者〉さながらだ。だがレディンは知っていた。王のもとまで上がってくる裁判は難しいものであることがほとんどである。その裁きのためには被疑者のみならず関係者の多くの心を探らねばならず、その作業は〈王〉をしても大変心身に負担がかかるものだった。レーガはレディンの体を案じて、裁判の日はなるべく都にいるように心がけているのだった。
「裁かれる者にとっては幸運だね」レディンはちょっと笑みをこぼす。
「私は甘いからな」やや仏頂面でレーガが返す。レディンは普段のその穏やかな様子に反し、厳しい判決を下すことが多かった。裁判が定例日ではなく突発的に入ることもあり、レーガは地方視察から帰ってきた日にレディンが裁きの間にいることを聞き、間に合えば代わろうと駆けつけたときのことを思い出した。ふてぶてしかった被疑者が怖れて魂が抜けたような様子でひざまずき、その前に立ちはだかっていた冷徹な〈王〉の姿を。
「-めったにあそこまではやらないんだけどね」レーガが何を思い出していたかを感じたレディンが苦笑した。「君ならもっと冷静な判断ができたかもしれないけど-」
「いや、お前は間違ってはいない」
一見優しげに見える外見。だがレディンは、厳しく冷静に的確に物事を判断する〈王〉としての資質をその身に備えていた。外見に惑わされ、それに気づく者はあまりいなかったのであるが。
*
レディンは部屋に入るなり、持っていたものを卓の上に投げ捨て、どさっとすわりこんだ。
「ああ、くそっ!」
部屋にいたレーガは横目でレディンを見る。
「珍しいな」
「俺でもキレそうになることぐらいある」
らしくない口調にレーガは軽く眉を上げる。
しばらくして、目を覆って頭を長椅子の背に倒しているレディンにそっと近づく。安らぎを込めた思いとともにレディンの額に何かがそっとふれる。レディンは手を上げて自分の上にかがみこんでいるその頭と腕をつかみ、額にふれたものを乱暴に自分の唇に押し当てる。
「-すまなかった。君に八つ当たりをした」レディンは情けなさそうな顔でそっとレーガの腕にふれた。きつく握られたそこは痣になっていた。
「いや、このくらい何でもない」レーガはレディンの腕に自分も手を添える。「何があった?」
「-今日、一人の心を砕いてしまった」
「例の兇悪事件の首謀者か」
「そうだ。何とか罪の意識を自覚させようとしたんだが、あまりにも‥」
〈王〉には心の中を探る能力がある。それは使いようによっては相手の心を思う方向へ向けさせることもできる。だがその作用は時に激しい抵抗を伴い、相手の心に回復しようのないダメージを与えることもある。それを行なう者の精神的負担も相当なものだった。
「お前は頑張り過ぎだ。少しは手を抜け」
「城にいるときは深夜まで仕事をしている人が何を言うやら。君こそもう少し休んだ方がいい」
「ふだん任せきりにしているからたまっているだけだ。それに私なら大丈夫だ」
レーガはレディンの顔をのぞきこんだ。「お前の方が余程心配だ。今日は本当にひどい顔をしていた」
レディンはごまかそうとしてやめた。この相手に嘘はつけない。まして肌がふれあっているときには。
「うん、ちょっと今日はこたえた。でももう大丈夫になるよ。僕も君にそんな心配そうな顔をさせていたくない」レディンは笑顔を見せて言った。
レーガはそっとその頭を抱きしめた。お前の苦労はともに担おう。私にできるものは。私はそのために、ともに〈王〉になろうと決めたのだから。
*
難問が山積していた南部から帰還したレーガは、帰城後まっすぐ修験者の鍛錬所に向かった。何とか収めたが、それは非常に後味の悪いものだった。乱の首謀者は処刑せねばならなかった。その家族は許すつもりだったのだが、首謀者の妻子は〈修験者〉で、厳しい禁があるにもかかわらず、その〈才〉を使って満座の中で〈王〉に襲いかかってきたのだった。妻はその場で切り殺され、まだ年端もいかないその娘も間もなく獄中で死んだ。その激しい憎悪をこめた眼差しが今でも脳裏によみがえる。ああするしかなかったとは思うものの、もっと前に何か手を打っておればああはならなかったのではと-。
レーガは鍛錬所にいた、顔なじみの年配の男に声をかけた。「今手が空いていたら少しつきあってくれないか?」
旅装もそのままの姿を見て、その男は少し眉を寄せたが、それについては何も言わずに立ち上がった。
「お相手いたしましょう」
しばらくの激しい打ち合いの後、レーガの手から木剣が飛ぶ。
「それまで!」制止の声がかかる。
「-久しぶりでしたな」
「すまない。私の気まぐれで邪魔をしてしまった」
「なんの、大した用はございませんよ」
城の鍛錬所の長である男はこの城の警護の最高責任を預かる者だった。暇であるはずはない。
「貴女様こそ、お疲れでございましたでしょう」
「私は大丈夫だ。‥だが荒れた心で中に入りたくなかったのでな。私の憂さ晴らしに付き合ってくれて礼を言う」
「いつでも。我らでお役に立つのでしたら」
「感謝する。ああ、もしかすると都の兵を動かすことになるやもしれぬ。そのときは頼む」
「お任せを」
「やあ、お帰り」
レディンは何事もないようにレーガを迎える。こちらに戻ってくるのが遅いことに気づいていないはずはないのに。
「ただいま。遅くなってすまなかった」
「今回は大変だったみたいだね」穏やかな声音。
「気を遣わせてすまない」城に戻ってからそっとその心がついてきていたのは知っていた。まして面と向かっては心を偽っても始まらない。
「僕は何でもない。愚痴を聞くぐらいはするよ?」
「-すまない」
「一人で抱え込まないでくれ。僕は君の-相棒なんだからさ」
「-ありがとう」
レディンはそっとレーガの体を抱きしめる。僕を気遣ってそう言う君は本当に優しくて。はけ口になれぬこの身がもどかしい。せめてその心に安らぎを-。
7.未来
「-もしかして?」レディンはレーガの腹に手を当てて聞いた。
「そうだ」
二人が結婚して一年余り経っていた。
「君の中に別の存在があるんだね」
その口調にレーガはちょっと笑う。「妬いているのか?」
「ちょっとね。それはともかく、大丈夫なのかい? 最近調子悪そうだけど」
「良くはないな。はっきり言うと悪い」レーガはちょっと顔をしかめた。
「え‥本当に大丈夫なのかい?」見る見る心配そうになってレディンが聞く。
「まあ、こんなものなのだろう。二・三ヶ月もすれば治まると聞いているし」
「君まで‥そんな‥」
「なに? そうか‥お前はいつも-」
「僕は今日は全然気分は悪くないよ?」しまった、とばかりに言う言葉がかえって確信を深めさせる。
「今日は、か‥」ずっとこんな状態でいるのか。お前は、いつも。
「だから、今日は大丈夫だから」
安心させるような優しい笑顔。言葉を失い、その肩に顔を埋める。
「お前は優しいな」
「君こそ、僕に気を遣わせまいとしていたくせに」
「たまには私にも言わせろ‥」
8.終末
時はゆるやかに流れる。だがそれは確実にレディンの体を蝕んでいる。レディンはそれを知っている。そしてレーガも、また。口にはせずとも、ふれあえば自ずとそれはわかる。わかってしまう。
「僕には時間がない」
「それは言うな」
一度その話をしてから、それは二人の間では禁句になった。決して口にはしないが、レーガはそれとなくレディンの体を気づかい、何かと配慮をした。
「君は優しいな」
レーガは答えない。表情も変えない。軽口で返せないときもある。
「君は泣かないんだね」
お前は言ったことがある。お前の前では決して泣かぬと誓ったから。私が泣くのは-ただお前を失ったときにのみ。そのときお前はこの世にいない。
その日が来た時どうするか、心は定まっている。お前は知ったら怒るだろう。もし立場が逆だったら、お前は決して同じことはするまい。二人の間の子も大きくなっている。あの子には悪いとは思っている。だからできることはすべてしたつもりだ。私の我儘なのはわかっている。許せ-。
時間が長くはないのはわかっていた。それについてはもうずっと前に納得していた。いつ終わりが来てもいいように、と過ごしていたつもりだった。だがあれ以来-少しでも長く生きていたいと願うようにならなかったと言えば嘘になる。自分の身が惜しいのではない。ただあの人が悲しむだろうことが辛い。
なるべく長く、と願うようになって、実際自分が思っていたより長くもったと思う。あの子があんなに大きくなるまで見ていられるとは思わなかった。まだ若いが、任せられる日も遠くはあるまい。
だがさすがにそろそろ限界が近いのを感じる。あの人は何も言わない。表情も変えない。鉄壁の下の渦巻を微かに感じるだけ。どうかあまり悲しまないで-。
*
そして、避けえぬその日が訪れる。レーガは一人レディンの傍らにすわっていた。廷臣も、一子レギンもすべて遠ざけて。そっと手を添え、安らげるような気持ちを送り続ける。荒れ狂いそうになる内心を必死に退けて。それでも恐らくはわかってしまうのだろうけれど。レディンがわずかに目を開ける。もはや言葉を紡ぐ力はない。だが穏やかな表情を浮かべ、優しい静かな感謝と愛情を送って寄こすのがわかる。レーガはわずかに手に力を込め、同じ思いを返す。そしてその交感の時が永遠に終わらぬことを願う-。
何も感じられぬようになったのはいつだったか。握る手はもはや何も返さず。まだ暖かいのに、そこに感じるのはただの物質に感じる空虚のみ。言葉にならぬ叫びがもれる。この男の前では決して見せるまいとしていた思いがあふれる。
部屋の外にいる者たち、のみならず城中の者たち、都中の者たちはそのとき何が起きたのかを知った。城から弔鐘が鳴るよりも早く、人々の心は聞いた。双王の片割れが、その半身を失った慟哭を。
扉が開き、レーガは無言で他の者たちに部屋の中に入るように合図した。最後にはレギンが残った。レーガはすでに自分より背が高くなりかかっている息子に近づき、その肩に手を置いた。
「後は、頼む」
そしてそのまま立ち去った。レギンはしばらく母のふれた所に手をあてその場に立っていたが、自分を呼ぶ声を聞いて父の部屋へ入っていった。振り向くことはしなかった。
*
「レギン様、レーガ様のお姿がどこにも見当たらないのですが」
「心当たりはすべて見たか?」
「はい。‥それにレーガ様が愛馬とされていたパール馬がいなくなっております」
「やはりな」
「それで‥どちらをお捜しすれば‥」
「何もするな」
「は?」
「何もするなと言ったのだ」
実は実務には支障はほとんどなかったのだ。レギンはすでに王の補佐もこなしていたし、レーガがいなくなった時、廷臣たちは〈王〉の決裁が、すべて『一人の王』で可能になるようになっているのを知った。レディンの病状が篤くなって以来、レーガはほぼ一切を仕切っており、その間に体制を整えていたのである。
レギンは母が何を考えているのかを知っていた。最後の一言でそれは確信に変わったが、それを止めることはできなかった。〈双王〉二人の絆がいかなるものであるかは、自分は誰よりも知っていたから。
王の墓所には二つの棺が安置されている。しかし片方は空で、没年も記されていない。〈双王〉は同じ年に生まれ、同じ年に即位し、同じ年まで王の位にあった。〈双王〉の片方が亡くなったとき、残った方は姿を消したという。パール馬に乗った女性を見たという者もあったが、その人の目は〈王の眼〉ではなかったという噂もまことしやかに囁かれた。確かな消息は二度と聞かれなかった。〈双王〉の片割れは〈危機相〉であったが、〈双王〉はその長からぬ治世のうちに国の乱れをほぼ収め、それからしばらくの間、リーフルの国は安定を続けたのである。
=====
思っていたより長くなった。
そして思っていたより恋愛ものの様相が強くなった。
ただでさえややこしい設定のあるものですが、その中でも異色の中の異色のこれから出すことになるとは。
昔の漫画とかに「接触テレパス」ってあったよね。今はあまり使われない言葉だろうか。
〈王〉は必ずしもさわらなくても読心ができますが、ふれた方がやりやすい、ということになっています。
「時の果てから」が形にした一番古いものであるのに対し、こちらが今の時点では一番新しいもの
(2010.4頃?、に加筆修正)。
さて書き方に進歩はあるのかないのか。
○
0.序
0.序
緑の民、リーフルの王には二人の娘があった。長女は〈庶民〉で次女は〈世継〉。長女は慣例通り、〈庶民〉の養子となって王のもとを去った。
ある年、荒野の遊牧民エリーがリーフルの都に攻め入って来た。多くの者が殺され、掠奪され、逃げた。エリーは王とその〈世継〉を傀儡として生かし、都にとどまった。
年月が経過した。グドゥがエリーの長に選ばれたとき、それまでの例に倣わず、リーフルへの支配の強化を行なった。そして、リーフルの間における王の存在の大きさに気づくと、グドゥは自ら剣を取ってその時の〈世継〉であった、王の孫である少年を殺した。都は希望の灯を失い、幽閉の老王は嘆き悲しんだ。
1.村
ザガーは飛び起きた。誰かの悲鳴を聞いたような気がした。鋭い苦痛に満ちた悲嘆の声。少年は頭を振ると、顔を洗いに外へ出て行った。
手桶の水に映った顔を、少年はまばたきもせずに見つめた。左の眼が火のように赤い。昨日までは両眼とも黒かったのに。確かそうだったはず。急に記憶がぐらつき、ザガーはまた頭を振った。
村人の少年に対する態度も微妙に変わった。保守的な小さな村の者たちは何よりも物事の変化や奇妙なことを嫌う。
「村から追い出せ」そんな言葉もささやかれた。「ただでさえあの子は“黒眼”なんだ」
ザガーは同じ年頃の子と遊ぶにも、いつもゲームの審判を進んでするような子どもだった。特に親しい友人はおらず、おとなしい子という程度だったのだが。村長“黒眼のノアン”は苦悩した。同じ“変わり眼”を持つ者として、少年のことはよく知っていたからだった。
「その子を、除いてはならない」
村長の家に集まっていた人々はさっと振り返った。そこに“隠遁者”が立っていた。離れて住んでいる青い眼の彼らはめったに村の中心部にはやって来ないはずだった。その独特な切り口上と鋭い目つきが事を決した。表面的にはそれまでと変わらない日常が戻ったかのようだった。しかしザガーは両親のもとでは今まで以上に、うちとけて生活することはできなくなっていった。紫の眼の両親のもとでは。
*
「レザガードア」
呼ばれてザガーは振り返った。ときどき見かける同年輩の“隠遁者”の娘、ダーハンがそこにいた。
「俺の全名はザガードアだが」
ダーハンは黙って首を振った。どういう意味だ?
「俺に用か」
用がなければ“隠遁者”が声をかけてくることなどないのは周知の事実ではあったが。ダーハンは素っ気なくうなずいた。
「館主が話があると」
ダーハンはくるりと向きを変えて歩き始めた。ついて来ると決めてかかっている態度にザガーは一瞬反発を覚えたが、黙って後に従った。
ザガーは一カ月程前から一つの思いに悩まされていた。越えて行かねばならない。あの北の山脈を。今も北の山脈を見つめていたのだが、答えは得られず絶対的な義務感が強まるばかりだった。
ダーハンがザガーを連れて行ったのは“隠遁者”の首長、館主の家だった。
「レザガードア。七年前、君の片眼が赤変したときから、我々は各地を探索していた」中央にすわっていた男-これが館主だろう-が前置きもなしに話し始めた。それでもこちらに説明するために、“隠遁者”としてはかなり余計にしゃべっているのだろう。「その探索者の一人が昨日戻ってきた。その者は北の山脈の向こうに我が民リーフルの都を見出した。そこはいまだにエリーに支配されていた」
ザガーはちょっと眉を上げてその男を見た。
「数十年前、蛮族(エリー)が緑の民(リーフル)の都を攻めた。ある者たちは逃げ、北の山脈を越えてこの地に移り住んだ。〈庶民〉は忌まわしい記憶を避けて話さぬようになり、彼らから過去は失われた。我ら〈修験者〉は数も少なく、すべてを守ることはできなかった。命も、心も」
男は言葉を切り、傍らの書物を取り上げた。ザガーはそのさまをじっと見ていたが、瞬間、その文面が目の前に浮かび上がったような気がして、思わず目を閉じた。
「『緑の民(リーフル)は三(み)つの民より成る。一つは〈庶民〉、紫の眼を持ち、諸々の技能・芸能に秀でたり。二つは〈修験者〉、青の眼を持ち、武と学をその生業(なりわい)となす。残るは〈王族〉、黒の眼を持ち、統治の業に就く者なり。〈王族〉に、片眼、赤き者あり』」
男は顔を上げた。
「一月前、都で唯一人赤の眼を持つ者、〈王〉が死んだ。そして〈王〉とその〈世継〉は名前の初めに『レ』をつけるのが通例だ」
男の顔を見据えたザガーは、次の言葉を口に出されるより早く捉えていた。
「君は〈王〉だ。レザガードア」
2.都
「アレヌお嬢さん、今日はどこへ?」
いつものからかい気味の声に、アレヌはきっと相手を睨みつけた。
「どこだっていいでしょ、エリーの若様」
「相変わらず気位が高いんだな。〈王族〉でもないくせに」
エリーの青年、ダヤイはにやにやしながらアレヌの嫌がるところをついた。
「何よ、背高のっぽの青っちろい肌の真黒頭の野蛮人!」
ダヤイは声を上げて笑い出した。
「おい、知ってるだろ。それは俺たちにとっちゃ誉め言葉になるんだぜ。草色頭の紫花の眼のお嬢さん」
アレヌの怒りに燃えた紫の眼がダヤイの後方に集中される。が、アレヌは懸命の努力で目を閉じた。背後でガタっと屋根の石材が動いたが、ダヤイは気づかなかった。
「この次はもっと気のきいた悪態を仕入れておいてあげるわ」
アレヌはさっとその緑の髪を振り、そう言い捨てるとダヤイに背を向けて歩み去った。
アレヌは王の孫娘だった。しかしアレヌは〈庶民〉であり〈王族〉ではない。もっともそれゆえに、王に近しい者であったにもかかわらず、かなりの行動の自由が黙認されていた。その王は、七年前〈世継〉が、アレヌの兄が殺されて以来、すべての望みを失ったようになっていた。アレヌは養家から呼び寄せられてそんな老王の話し相手となり、身の回りの世話をしていたのだった。
そのとき王城から、激しく打ち鳴らす鐘が聞こえてきた。間もなく都に布令が回された。-王が、亡くなられた。
「長。リーフルの王が死んだそうですね」
ダヤイは長グドゥの部屋に入りながら言った。その部屋には長に近しい者たちが集められていた。
「そうだ」グドゥは他の者たちを見回した。「草頭(リーフル)どもをしばらくよく見張っておけ。絶望に駆られて馬鹿な事をする輩がいるかもしれんからな。特に“闇眼”は家から出すな。感情的な“花眼”を煽動して何か企むかもしれん。奴らは“花眼”どもより頭がいい。“空眼”がいないとはいえ気を抜くなよ。もちろん“火眼”についての噂を聞いたらすぐ知らせろ。よし、行け。ああ、ダヤイは少し残れ」
他の若い者たちは、ダヤイを羨ましそうに見ながら部屋から出て行った。
「何です、イーズニ?」
「俺は気になるのだ、ザヤーリ」
互いにエリーの二番目の名、部族内でのみ使われる〈内称〉で呼び合って話した。ダヤイは長グドゥと個人的に親しかったからだ。
「七年前俺のやったことは正しかったのか、とな」
グドゥはこのような悩みを他の者にはめったに見せなかった。エリーの長は世襲ではない。ダヤイはまだ若いが腕が立ち、明るい性格で多くの者に慕われ頼られていた。エリーの慣わしではそのような者が長に選ばれる。ダヤイはグドゥの後継者と目されていた。
「草頭どもの行動がかえって読めなくなった気がする。おまけにこの石の都に慣れきってだれた者たちが最近増えてきた。そろそろ草原に戻る頃合いなのかもしれんな」
グドゥもダヤイもこの都の生まれだった。それでも石の都はどこか落ち着かない気がしていて、常に草原への憧れがあった。周辺に狩りに出たりしているとはいえ、都からでは行ける距離は限られる。ダヤイは窓から外を見たが、ここからでは、都の外に広がる草原は見えなかった。
王が亡くなってから数日後。アレヌは城を抜け出して、息抜きに都の外の丘を歩いていた。このところエリーの締めつけが厳しくなっていた。あいつらも探しているのだ。都とその近郊には〈王の眼〉を持つ者は現れていない。それならどこかほかの地にいるに違いない。〈王〉は常に存在するはずだからだ。そして〈王〉が〈王族〉の子であるとは限らない。〈王族〉から〈修験者〉や〈庶民〉が-私のように-生まれることがあるように。
目の前の茂みが動いた。アレヌは立ち止まり、そこから現れた〈修験者〉の青い眼を見とめた。
「あなたは〈櫓の塔〉の人?」
「違う」即座に否定の言葉が返ってきた。「私は〈砦の館〉の裔だ」
アレヌは驚き、喜んだ。エリーの侵攻の折、都にあった最大の〈修験者〉の拠り所である〈砦の館〉の者は、エリーに対してほとんど全滅に至るまで戦ったのだ。その生き残りがいて、流れが続いていたとは。
「ではあなたのお仲間に伝えて。都は、今‥‥」
3.山
ザガー、もといレザガーとダーハンは山の中腹にいた。この山の向こう側にリーフルの都があるのだ。王か‥‥この俺が。レザガーは皮肉な笑みを浮かべた。村の者は俺を忌み嫌っていたものだ。それとも無意識に畏れ、敬遠していたのか。
あの日、あの後呼ばれた村長のノアンは、今こそエリーの手から都を奪い返すべしという“隠遁者”-〈修験者〉の意見に、熟考の末同意した。〈修験者〉はほぼすべて行くことに固まっていたが、村からも志願者を募ることになり、出発の準備にもしばらく時間がかかることになった。一人で少しゆっくり考えたかったレザガーは、自分は先に出て都の様子を探ってくると申し出た。〈修験者〉たちは、護衛としてダーハンが同行することで是認した。レザガーは渋ったが、〈修験者〉たちは頑としてその条件を譲らなかった。今にして思えば、山野をよく知らなかったレザガーに一人旅は無謀というほかはなかったのであるが。ダーハンはレザガーとは同年代だったが、すでに〈修験者〉の成年と認められていた。そして〈修験者〉の常として寡黙だったので、考え事をしたいときの連れにはうってつけではあった。
二人で黙々と歩いていたとき、不意にレザガーの心は妙なものを捉えた。顔を上げ、右の眼で人影を見とめた。
「ダーハン‥‥あれは何者だ? 話に聞いていたエリーとは違うぞ」
「見えない」
「何だって、あそこに‥‥」
言いさして、レザガーは前に似たようなことがあったのを思い出した。森の中で一角馬パールを見かけたときのことだ。それを見たのは黒の眼を持つ自分と村長のノアンだけだったのだ。後で考えると木が邪魔して見えないはずの場所で。
「とにかく行ってみよう。誰かいた」
ダーハンは微かに眉をひそめたが、レザガーの後に従った。
その女性は二人を待っていた。見慣れぬ金の髪と褐色の肌、さらに奇妙なのはその眼で、鮮やかな緑色の虹彩がほぼ眼全体を占め、瞳孔は針の先のように小さかった。
「ようこそ、旅の方々。我が住み処で一夜のもてなしを受けてください」
その人は洞窟に一人で住んでいた。昼間は外に出て放し飼いにしている山牛の番をするという。二人の旅の目的は、少しも聞こうとしなかった。その人の興味は山でのことだけで、“外”のことにほとんど関心がないように見えた。問われると、自分ことを話した。
「私たちは冬場以外は一人で暮らします。多くの心がそばにいるのは疲れるものですから。私たちは自分の心で引き寄せておけるだけの山牛の世話をするのです。近くに他の者がやって来てその心が捉えらると、私たちは互いに離れます」
同族の者がいないわけではないようだった。それも聞くところによる〈王〉の〈才〉に似た力を持つ者たちが。
「いつもは姿を見られないように暮らしていますが‥‥今日は変わった心を捉えたので出てみたのです。私たちは〈審判者〉ですから」
「〈審判者〉?」
レザガーは振り返ったが、ダーハンも初耳の言葉のようだった。
「私たちは世界の真実を見るのです」
その晩、レザガーはその女性と心を通じて話してみようと試みた。しかし互いの心の存在は感じ取れるものの、遂に言葉を伝えあうことはできなかった。ダーハンの心なら、時にはっきりと捉えることができるようになってきたのに。
翌朝、歩きやすい道を教えてもらって別れた。別れ際、その不思議な女性は笑みを浮かべて言った。
「あなたの信じるところを進まれますように」
この孤独を好む風変わりな山の種族の者に、以後会うことはなかった。
4.丘
アレヌはこのところますます都から遠くまで出歩くことが多くなっていた。いつか会った男は〈修験者〉の常で、確実でないからと何一つはっきり言わなかった。王の死から三月が過ぎようとしていた。都はいまだ不穏な緊張状態のもとにあった。王が亡くなった今、アレヌが城にいる理由は本当はなかった。だが養家に戻る気にもなれず、アレヌはいまだに城に留まっていた。
何かがアレヌの心に触れた。祖父の心も時折こんな風に感じたものだ。アレヌは顔を林の方に向けた。
「私はアレヌリザーン、故王の血を汲む者」
アレヌはそこに立ち、待った。
レザガーは丘陵と林を通して平野にある都を見ていた。大きい‥‥村とは比べものにならない。と、ダーハンが手で合図をし、さっと木陰に隠れた。同時にレザガーも隠れながら、左と右の眼の力を延ばしてみた。右の黒の眼を通して感じられる人影が立ち止まったのがわかり、左の赤の眼と耳を通して言葉が届いた。レザガーは決心して姿を現した。
アレヌは前に現れた青年の姿を凝視した。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべると、優雅に膝を折った。
「王。御帰還を、お待ち申しておりました」
「さて」アレヌはきびきびと立ち上がった。「こんなところにもたもたしていたら危ないわ。エリーはこの辺りにはあまりやって来ないけどね」
アレヌは都に近づきながらも、都からは見えにくくなるような道筋を取った。
「都は今どうなっている? ‥‥王が亡くなってから」
レザガーの問いに、アレヌは答えた。
「故王の息子、私の叔父であるノードが“王無き摂政”を務めているわ。私の父と〈世継〉だった兄は七年前に殺されたから」
「七年前、か」
レザガーはつぶやいた。
「ええ。ノードはつなぎとして、よくやっているけれど、いい相談役止まりだわ。王の器ではないのよ」
「辛辣だな。俺はそれこそ都の道一本、統治の法一つ知らない田舎者だぞ」
「でも、あなたの左眼は赤い」
アレヌはそれがすべてであるようにきっぱりと言った。黙り込んだレザガーを見て、アレヌはちらりと笑みを見せた。
「長年続いたものを打ち砕くには劇的な演出も必要よ」
「そして自分たちが働いたことが征服者の懐ではなく自分たちのものになると知れば、しばらくは多少のことには目をつぶってくれるというわけか。その間にいろいろ覚えて国を建て直せ、と」
「わかっているじゃない。あとはノードに聞いて」
「その前に、いかにして城内に入る?」
それまで黙っていたダーハンが唐突に口をきいた。アレヌは顔を引き締めてうなずいた。
「城に通じる秘密の道があるのよ。私も亡くなる直前にお祖父様‥‥王に聞くまで知らなかったわ。使うのはまだ二度目。このへんよ」アレヌは辺りを探しながら言った。「中に入ったらこっちのものよ。城の中では奴らが絶対行かない場所も知ってるし」
「自信があるな。それはどこだ?」
「文書庫よ。エリーは字が読めないから用がないのよ。気晴らしに書を燃やしたりするのにももう飽きたみたいね。奴らは今さらあそこへは行かないわ」
アレヌの声は厳しかった。レザガーは一見陽気そうなこの〈庶民〉の娘に、個人的な恨みだけでなく、ずっと目の前で行われていた数十年に渡る被支配の屈辱を見た。そしてその中でも絶えることなく続いている〈緑の民〉の誇りを。断絶と忘却で、安逸の代償に村からは失われていた誇りを。
5.城
暗く崩れかけた地下道をようやく抜けると、アレヌは二人を文書庫に待たせて慌ただしく消え、間もなく一人の男を伴って戻ってきた。
「彼がノードよ。私は外から帰らなきゃ。叔父上、あとは頼みます。ダヤイは適当にあしらっておきますから」
三人が何も言わぬうちにアレヌはしゃべり終わると、するりと抜け道に入って姿を消した。
「元気なものだ」男は-ノードは低く笑った。続けて短く敬意と歓迎の言葉を述べると言った。「こちらへ来られよ」
「どこへ行っていた」
「あら、いつものことじゃない」
城門近くで待ち構えていたダヤイにアレヌは快活に答えた。
「いつもとは‥‥違うぞ。なぜこんなに遅くなった。何をしていた」
「何にもないわよ」アレヌはさりげなく笑う。全く、勘がいいんだから。
「アレヌ」
ダヤイが一歩進み出た。声に危険な匂いが含まれる。
「仕方ないわね」アレヌは肩をすくめた。「これよ」
アレヌは腰につけていた袋から五つの玉を取り出した。険しい表情だったダヤイは拍子抜けしたようになる。
「これは手先と反射神経の訓練になるのよ。暇だからやってたけど、つい熱中しちゃって」
アレヌは三つをダヤイに持たせて二つを手に取り、右手から左手に移して投げ上げ、次々と他の三つの玉を取った。常に三つは宙に浮かせておく高度な技である。ダヤイは怒りを忘れて口笛を吹き、思わず手を伸ばした。
「駄目!」
アレヌは声を出したが、その瞬間緊張が解け、玉は落ちて転がった。
「駄目じゃない。さわったら」
「すまん。だが見事なもんだな」
「訓練すればもっとできるわ。エリーは無器用だものね」
ダヤイは気持ちの良い声で笑った。「悪かったな。もっと上達したらまた見せてくれ」
仲間に呼ばれてダヤイは向こうへ歩いて行った。
玉を拾いながらアレヌはダヤイの笑い声を思い出していた。あの男がエリーでさえなければ‥‥。アレヌは手を止めた。あいつはエリーよ。そのものだわ。大体、あいつがエリーでなければ‥‥何だというの?
「遅くなったわ」
アレヌは文書庫の奥の部屋に入ってきた。
「現状を説明していたところだ」ノードは考え込みながら言った。「侵攻時一緒だった数部族が今はいないとはいえ‥‥グドゥの部族は決して少なくないし、弱くもない。この人の話からすると、」ノードはダーハンの方を向いてうなずきながら続けた。「〈砦の館〉の裔だけでは数が絶対的に足りんのだ。都には今〈修験者〉はおらんし」
「しかし〈庶民〉をいれれば‥‥」
「〈庶民〉は数には入れられません、王」穏やかにノードはレザガーの言葉を遮った。「石を飛ばして邪魔をするくらいはできましょう。ですが、エリーはみな本格的な戦闘員。我らのうちで太刀打ちできるのは〈修験者〉だけです」
「そうすると‥‥やっぱり〈櫓の塔〉にも連絡を取ってみないと」アレヌが考え込むように言った。
「エリーの侵攻の折、〈塔〉の者は来なかった」珍しくダーハンが吐き捨てるようにつぶやいた。それでも正確さを期す〈修験者〉として付け加えた。「‥‥と言われている」
「以前から〈館〉と〈塔〉の二派が緊密な関係だったとは言い難かったことは聞いているが。しかし‥‥」ノードは困ったように首を振った。
「〈王〉が行けば少しは違うか?」レザガーはゆっくり口を開いた。「そして〈館〉の者が口を添えれば」
レザガーはダーハンの顔を見据えた。
「やるからには勝たなければ意味がない。彼らが動かなければ勝てないのなら、何としても動かさなきゃならない。ダーハン、〈館〉の裔のお前が以前のことをとりあえず脇に置いて手を組もうと言えば、少しは違うと思うが」
ダーハンはしばらくじっと黙っていた。ややあって顔を上げて一言、言った。「わかった」
6.塔
都にはひそやかな噂が流れていた。間もなく〈王〉が帰ってくる、というものだ。エリーがいくらもみ消そうとしても、それは消えなかった。〈庶民〉たちは目顔でうなずきあった。我々は〈王〉の声を“聞いた”と。
ダヤイはいらいらと城内を歩き回っていた。どうもおかしい。草頭(リーフル)の奴らは何を考えている? 気づけばアレヌの部屋の前に来ていた。ノックもなしに扉を開けると、非難がましい目つきをしたアレヌと目が合った。
「昼間から部屋にいるとは珍しいな」
「そう?」アレヌは取り澄ましたように言う。
「何を企んでいるんだ、お前たちは」
「何のことかしら。この間からずいぶん疑り深いのね」アレヌは無邪気そうに笑った。「落ち着くようにお話でもしてあげましょうか?」
「結構だ」ダヤイはどかどかと出て行った。
「こういう話よ」アレヌはつぶやいた。「『昔々王の弟が、自分が王になろうとしてその兄を殺した。けれど弟の眼はそのままで、〈王の眼〉は遠縁の〈王族〉の一人に現れた。神は必ずしも王に最も近い血縁の者を王にするとは限らない』‥‥これは私たちの間に昔からある言い伝えよ」
「こんな所に本当に〈塔〉があるのか」
ここはリーフルの領土のはずれ、切り立った岩だらけの地だった。しかし道中で〈塔〉のありかを教えてくれた者の言はみな一致している。既婚女性の多くは〈塔〉の位置を知っているからだ。あまりないことだが、もし青い眼の赤ん坊が生まれたとき、その命を救うためだ。子どもは同じ階級の者が育てるという慣習は昔からあったが、それだけでなく〈修験者〉の赤ん坊はエリーに見つかると殺されるからだった。エリーは侵攻の際の〈修験者〉の激しい抵抗を怖れ、これ以上〈修験者〉をふやすのを防ごうとしていた。〈庶民〉たちは青い眼の子は荒野に捨てるのだと偽っていた。実際は捨てると見せかけて、秘かにだが今ではリーフルの民に知られている唯一の〈修験者〉の拠り所である、〈櫓の塔〉へと送られているのだった。
山肌を回ったところでダーハンが立ち止まり、指を差した。レザガーは見て、息をのんだ。崖からいくつもの塔が突き出しているのが見えた。いずれも複雑な形をしているが、なるべく遠くが見渡せるような実用的な造りになっているようだった。どうやら半分は崖の中にあって、内部はつながっているらしい。が、見ていてレザガーは妙なことに気づいた。
「おい、入口はどこにあるんだ?」
ダーハンは肩をすくめると、進み出て唇に指を当て、鋭い音を発した。と、目の前に一人の〈修験者〉が現れた。〈修験者〉の〈才〉を使っての突然の出現に、レザガーはぎょっとした。
「驚くことはない。青の眼の力だ。紫も別の力を持つし、黒と赤もそうだろう」
ダーハンの言葉に、レザガーは自分の遠視-透視と、読心-呼心の力を思った。前者は生まれたときからの、後者は七年前からの。
ともあれ入口がない理由は分かった。必要がないからだ。それに、これならエリーは入れはしない。ダーハンと迎えに出てきた者の力によって、レザガーは〈櫓の塔〉に入った。
レザガーはかぶっていたフードと、左眼の上に巻いていた布を外した。例によって〈修験者〉たちは無表情な面を崩さない。だがレザガーは、水面下、彼らの心の中に、微かにさざなみが走ったのを感じた。
「すでに報せが来ていようが、」
レザガーは手短に用件を述べた。
「‥‥この身に意味があるのならば、今が奪還の時だと思う。都のエリーに以前の勢いはない」そして続けた。「これは助力申請ではない。リーフルとしての義務なのだ」
レザガーは自分の言葉に半ば驚いていた。都に行って以来、自分がリーフルの民の運命に捉えられているのを感じていた。
ダーハンが進み出て、〈砦の館〉の者である印を見せた。
「〈館〉の裔は少ない」ダーハンは事実のみを口にした。
その昔、都の中にあった〈館〉は辺境の〈塔〉より多くの人数を抱えていたが、エリーの侵攻時に激減したその数はまだ復していない。逃げる〈庶民〉を護衛した少数の者のみがその生き残りだったからだ。
〈櫓の塔〉の首長が進み出た。「我らは戦いに参加する」
それですべてだった。レザガーはダーハンの言わぬ問いを口に出した。
「なぜ今は出るのか?」
「侵攻時、エリーは我らの地を通らずにやって来た。それを察知できなかったのは我らの気の緩み、我らの落ち度だ」首長は淡々と言った。「我らに報せが届いたとき、すでに都は落ち、〈館〉の者はほぼ全滅していた。我らだけではそのときから行っても同じことになるのは明らかだった。そこで我らは耐えて待った。臆病者の汚名を着て。機会が来るのを。国を見捨てたわけではない。我らは緑の民(リーフル)、それ以外ではありえない。王命に従おう」
7.力
都は表面的には静かだった。が、それは嵐の前の静けさであり、待っている者のそれだった。城と〈塔〉、北の-ここからは南の-山脈を越えて丘陵地帯に潜んでいる〈館〉の者たちの間を、秘かに伝令が行き来していた。
エリーも何かを感じていたものの、実際には何も見出せないでいた。噂は飛び交っていたが、面と向かうと〈庶民〉たちも重要な情報は何一つ洩らさなかった。今まで比較的協力的だった者でさえ。〈王〉という言葉が噂の中に見え隠れしていた。
そしてある日、遂に事は動いた。
すべての者が、エリー以外のすべての者が、その時やっていたことをやめた。エリーがいぶかっていると、何かに聞き入っているかのような表情をしていた〈庶民〉たちが、突然歓声を上げた。そして時を移さず、都の両端から〈修験者〉の激しい合図の指笛が響き渡った。戦いが、始まったのだ。
ダヤイは数人の者を従えて、アレヌの部屋の扉を乱暴に押し開けた。アレヌは落ち着き払ってダヤイを見上げた。
「何か用?」
アレヌは五つの玉を手に取ると、それを操り始めた。
「用か、だと?」ダヤイは詰め寄った。「よくも騙していたものだな。どうも変だと思っていたんだ」
「行かなくていいの? あなたの民は狼狽しているようよ。あなた、指揮官の一人でしょ」
「黙れ」ダヤイは唇をかみしめた。「お前をひきずっていって俺の楯にしてやってもいいんだぞ」
「無駄よ。私はただの一〈庶民〉。私には何の価値もないのよ」
「だがお前は王の娘として知られている」
ダヤイはさらに詰め寄ろうとした。
「私に近寄らないで、エリー」
アレヌは鋭く言い、手の動きを止めた。玉のうち二個は手の上に、他の三個は宙にぴたりと静止した。
「それ以上寄ったら、この玉をあなたたちの喉元へ飛ばすわよ。五人は確実にあの世へ行くわ。玉の五つぐらい、私は自由に操れるのよ」
ダヤイは静止している玉を見てうなった。
「魔性の者め‥」
「私たちは緑の民(リーフル)。眼による力の行使は厳しい自制の対象よ。普段は必要ないし」
「フン。やっとお前たちが不完全なわけがわかったぜ」ダヤイは毒づいた。
「不完全ですって?」
「そうさ。俺は何で眼の色なんかで〈王族〉〈庶民〉と決まっていて、しかも根本的に違うように扱われるのかずっと疑問に思っていた。確かにお前たちの〈王族〉には詩人もいなけりゃ手技師もいない。逆に〈庶民〉には統治者がいない。戦士に至ってはどちらにもいない。俺たちには全てを兼ね備えた者がいる。お前たちは人間(エリー)のできそこないだったというわけさ。それをせめて補うために、そんな魔物の力を持っているんだ」
アレヌの紫の眼は火のように燃えた。「私たちは人間(リーフル)よ。お前たちには統治にも武芸にも手技にも、何一つ優れたことのない者が山といるじゃない。その方がよっぽどできそこないよ!」
「それが当たり前の人間じゃないか」
二人は睨みあった。
「五人ぐらい殺しても他の者がすぐお前を手にかけるぞ」ダヤイは押し殺した声で言った。
「そうしたら、対等に戦うこともできないのに健気に抵抗した王の血を引く誇り高き〈庶民〉の娘を殺したとして、エリーの株はますます下がるでしょうね」
リーフルの〈庶民〉は口が回る。言い負かされてダヤイはしばらくアレヌを睨みつけていたが、聞こえてきた外の物音に舌打ちすると、それ以上は何も言わず、荒々しく扉を閉めて出て行った。
8.戦
戦いの流れはリーフルの方に傾いていた。厳密に数えれば、〈塔〉と〈館〉の裔の者を併せても、エリー全員の数には達していなかった。しかし彼らには勢いがあり、高揚した〈庶民〉たちもあの手この手でエリーの邪魔をしていた。都にいたエリーは長い間本格的な戦闘をしていなかった。それはリーフルの方も同じはずだったが、彼らの士気は高かった。リーフルの民は〈王〉の声を“聞いた”のだ。
レザガーは戦いの後方で数人の〈修験者〉に守られて立っていた。まだ荒い息と動悸が治まっていなかった。つい先程、都の端で、レサガーは心を最大限に開いたのだ。その途端、左の赤の眼を通して、すべての人々-都にいる緑の民(リーフル)すべての心が感じられた。圧倒される気持ちを抑え、レザガーははっきりとメッセージを送ったのだ。
『私は〈王〉だ。戻ってきた。都をエリーの手から解放しよう』
ダヤイは部下を叱咤激励しながら街中で指揮を執っていた。戦線は次第に崩れつつあった。とある角を曲ったとき、その男を見つけた。遠目で眼の色までは確認できなかったが、周囲の状況から重要人物と知れた。ダヤイは咄嗟に手槍を掴むと、狙いを定めて投げた。
一人の〈修験者〉が振り向いた。が、槍を払いのけるには遠すぎた。しめた!とダヤイが思った瞬間、その〈修験者〉の男の姿が消え、狙った人物の前に出現して槍を体で受けた。その光景に驚いている暇はなかった。ダヤイは身近に起こった激しい戦闘の中に引き込まれていった。
ダヤイは剣についた血を払った。周囲には立っているエリーが少なくなり、徐々に戦いが収まりつつあるのが感じられた。しかし長グドゥが全身を返り血で朱に染めて、まだ諦めた顔をしていないのが見えた。
「俺がグドゥだ! 俺の相手をする者はいないのか?」
さすがの勇敢な〈修験者〉たちも、グドゥの回りのいくつもの死体を見て遠巻きにしていた。
「誰もいないのか?」グドゥは吠えるような笑い声を上げた。
一人の〈修験者〉の女がひらりとその前に跳び出した。
「ダーハン!」ダヤイは後ろで誰かが叫ぶのを聞いた。
すぐに二人は激しく打ち合い始めた。レザガーは見ているうちに、ダーハンが成り行きに酔って跳び出したわけではないのがわかった。その娘は単にレザガーと比較的親しいから、というだけでそのたった一人の護衛に選ばれたわけではなかったのだ。ダーハンは〈砦の館〉の裔の者の中で、一番の剣の使い手だった。
二人の戦いはなかなか決着がつかなかった。互いの伎倆はほぼ互角だった。が、ダーハンは長引けば女の身ゆえ細身の自分の体力が先に尽きるであろうことを冷静に見抜いていた。相手もそれを待っているのは明らかだ。それでも青の眼の力を用いようとはダーハンは露ほども思わなかった。一対一の戦い、特に異種族とのそれで、その力を使うことは〈修験者〉の最も厳しい禁制事項だった。ならば、方法は一つ。ダーハンはすべてのガードを下げ、相手に攻め込ませる隙を作った。攻撃を繰り出してくれば相手の方にも隙が生まれる。そうしてできた隙に、相手の心臓だけに注意を集中してダーハンは剣を突き出した。相手の顔に驚きの表情が走り、次いでそれは凍りついた。グドゥの体はずるずると崩折れ、動かなくなった。ダーハンはそれを見届けると、自らの腹に突き刺さっていた相手の剣を、ほとんど顔色を変えずに引きぬいて捨てた。鮮血があふれ、ダーハンはがくりと膝をついた。助かる傷でないのはわかっていた。どうせ同じことなら敵の剣を腹に埋めたまま死にたくはない。他人事のようにそんなことを考えた。
いつの間にかグドゥとダーハンの回りには円陣ができていた。戦いは、終わっていた。
9.名
「ダーハン‥」
レザガーは人をかきわけて前に出てきた。ダーハンは彼を見上げて、ふっと微笑んだ。普段はほとんど表情を変えない〈修験者〉であるダーハンの、めったに見せないその笑顔。
「私の名を解放して、レザガードア。ダーハヌアーラを」
〈修験者〉の全名の解放。それは死を意味する。〈修験者〉の全名はエリーの第三の名、〈親称〉にあたる。彼らはそれを自分にとって重要な人物にしか、明かさない。〈修験者〉のそれは、死後その名を知る親しい者によって解放される。以後、それまでの通称であった略称を使えるのはごく親しい者だけとなる。
「ダーハヌアーラ‥‥」言葉が見つからなかった。
「祝福を、我らが王に」
ダーハンは事切れた。
レザガーは立ち上がり、グドゥをみとっていたエリー、ダヤイと顔を合わせた。
これが〈王〉か。自分では剣の一振りもしない、この若僧が。奇妙にちぐはぐな印象を与える色違いの目。
「お前が、王か」
レザガーはその言葉を反芻した。望んだわけではない。そのとき、レザガーは、もし本心より望むのなら、赤の眼を捨てることができるのを知った。〈王〉自らがその民を拒んだとき、その元〈王〉は生きながらえることができるのか、再び新しい王が現れるかどうかはわからなかったが‥‥。レザガーは辺りを見やった。多くの死傷者。身を持って自分を守った〈塔〉の男。そしてダーハン‥‥ダーハヌアーラ。人々の心を捉えたときの高揚感。呼びかけへの歓喜に満ちた反応。ここは俺を受け入れた。ならば俺も責任を果たさねば。もし神というものがいるのなら、神が俺を選んだのだ。それなりの理由があるのだろう。
「-私が〈王〉だ。お互いこれ以上の流血は好ましくあるまい。緑の民(リーフル)の土地より立ち去れ。そしてこれからの接触は平和なものにしたいものだ。かつてやっていたと聞いているように」
侵攻前、エリーはリーフルと交易などをして、もっと穏やかに接していたものだった。
「わかった。今回はこちらの負けのようだしな」ダヤイは他に答える者がいないようなので進み出た。「我々は石の都に居過ぎて体の芯が錆ついたようだ。我らは自由の民(エリー)、野に帰ることにしよう」
ダヤイはリーフルの〈王〉に背を向け、エリーをまとめにかかった。
アレヌにばったり出会った。
「どうだ、出て行ってやるぜ」ダヤイは自嘲気味に言った。
何か言ってやろうと口を開きかけたアレヌは言葉を飲み込み、目をそむけた。ダヤイもそのさまを見て言いかけたことをやめた。さまざまなことがその胸に去来した。
「アレヌリザーン、覚えておくがいい」ダヤイはちょっと言葉を切ってから続けた。「俺の三番目の名は、ダーナヴィーンだ」
アレヌが何も言えないでいるうちに、ダヤイ=ザヤーリ=ダーナヴィーンは去って行った。
アレヌは立ち尽くしていた。明日からは新しい日が‥‥緑の民(リーフル)本来の暮らしが始まるのだ。だから今夜は感傷に浸っていてもいいでしょう? 明日からは、すべて新しくなるのだから。
=====
一応要素はほぼすべて(使わないかもしれないものも含めて)入れてあると思う。
あんまりおもしろい話じゃなかったよな、と読み返してみたら割とよくできてた? というよりかなり細部を忘れていたw
あ、これも〈危機相〉だったな。まだサブシリーズ構想する前ですが。
どうしても恋愛ものの要素を入れずにはいられないのか>自分。それも悲恋系。読むのはハッピーエンドが好きなのになー。
「天蓋」其ノ二(1984.11.20)初出に加筆修正。
○
シリーズの中では一番特殊な設定のあるものかも。
それぞれにやれることがある程度定まっている〈庶民〉、〈修験者〉、〈王族〉そして〈王〉という〈階級〉に分かれる〈緑の民(リーフル)〉の物語。
蟻や蜂のようというとちょっと極端だが、そんな感じをイメージ。
対して〈エリー〉という遊牧民は「普通」の人々で、部族ごとに分かれ、その長はオールマイティーな能力のある者が務める。
〈リーフル〉の方は一般的な能力のほか、異能、いわゆる「超能力」的な力もあるということになっていて、〈エリー〉より「人間離れ」してるかも。
実はこの世界の物語の中核になっている長編は、物語の都合上SF設定で始まることにしてしまった。その設定は他の話ではまったく出てこなかったりするので、その長編を書くことがあったら発端を変えないといけないかも。
という裏事情はさておき、とりあえずは異世界ファンタジーとして問題ないかと。
上記の長編ほかいくつかネタは考えているのだが、貴種流離譚的な話が多い気がする。
作品一覧は書けたときに随時更新。
既発表作品「異種族」は世界設定説明的な話なので、できればこれを最初にお読みいただきたく。 この話に大体書いてありますが、細かいことを下方に。ネタバレにもなるので、避けたい方はパスで。 各話中でも必要なことはわかるようにするつもりですが一応。
どちらかというと異色なものになるはずだったシリーズ内シリーズ「危機相の王」は、「双王」/「エリーの王」/「王の眼」/「王の血」の4編を予定。
実は今のところ最も新しく書いたもの。
〈リーフル〉:緑色の髪、クリーム色の肌。髪も肌も色調にはかなり幅がある。町や村に定住する農耕民。ペリイという双角の馬を使う。
・〈庶民〉:目の色は紫。技能と芸能に秀でる。〈才〉はいわゆるテレキネシス。重い物を持ち上げたりいっぺんにたくさんの物を動かしたり、ものすごく細かく複雑な細工物を作ったり。〈才〉を使わなくても手先は器用。歌舞音曲が得意で話し好き。
・〈修験者〉:目の色は青。武芸と学芸に秀でる。〈才〉はいわゆるテレポーテーション。口数の少ない者が大半。フルネーム〈全名〉をごく親しい者にしか明かさず、普段は略称で通す。主な拠点は都のはずれにある『砦の館』と、地方にある『櫓の塔』。
・〈王族〉:目の色は黒。統治者、村長から都の役人まで。〈才〉はいわゆる透視能力。
・〈王〉:目の色は片方が黒でもう片方が赤。赤は右目の者が多いが左目の者もいる。〈才〉はいわゆる透視能力+読心・心話能力。通常では〈王の眼〉を持つ者は〈王〉自身と〈世継〉のみ。必ずしも直系が〈世継〉になるわけではない。
赤の眼が左目にあるのは〈危機相〉と言われ、国が乱れているときに現れそれを収める者とされる。だが国の苦難のときに現れることで、しばしば疎まれる。
〈エリー〉:黒い髪、黒い目、オリーブ色の肌。通常は定住しない遊牧民。特に異能はない。部族ごとに暮らしているが、しばしばリーフルの町や村を襲い食料などを略奪する。部族の長は多くのことに優れていることが求められ、武芸の腕が一番重要だが、詩人だったり、楽器の演奏が巧みだったりすることも多い。名前が三つあり、通称=内称=親称からなる。〈内称〉は同じ部族の者にしか教えない。〈親称〉はごく親しい者に教える名であるところが、〈修験者〉の〈全名〉に似ている。使う馬パールは一角でリーフルのペリイより体が大きく気性も荒い。
○