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i
少女は流れを見つめていた。形なき水が、とめどなく流れていくところを。
それは西方より一人の男がやってきたことに始まった。町の王は支配権を要求した男を嘲笑った。なぜならその男の体つきが貧弱で、貧相な面構えをしていたからである。しかしその男の目の光は鋭く、その声には力があった。そして額には金の環をはめていた。男は警告を吐いて立ち去った。
火龍がやって来たのはその三日後である。矢も槍も剣も呪文も、何一つ火龍を傷つけず、それは火を吐き風を吹いて暴れた。町は劫火に包まれて崩れ、人々は逃げ惑った。やがて動くものが見えなくなったとき、火龍は上空を飛びながら勝ち誇った叫びを上げた。
飛び去ろうとしたとき、なぜとは知らず、火龍の心には影がかかった。ふと不安に感じて、火龍は呪縛の言葉を放っていった。
「生きている者あらば聞け! 汝の心は閉ざされ一切を見失う。脳裡に残るはただ我の所業のみ。また汝が西の方(かた)へ行くことはできぬ。悪夢が汝に取り憑くであろう」
その呪文は、かつて人間に破られたことはなかった。
火龍が去った後には沈黙が訪れた。
そして少女は一人、小川のほとりにうずくまって流れを見つめていたのだった。心は空っぽだった。命あった者たちはみな東方へ逃れていった。私はどこへ行けばいいのか-。西へ。火龍の来たりし方角へ。少女は自らのうちに、自然に湧き上がってくる意志を感じた。空白の心はかえって迷いを感じさせない。内なる思いに従って、少女は歩き始めた。
ii
進むにつれて、赤い禍々しい目の幻影が少女を悩まし始めた。いま一つの呪縛が効いているのだ。少女はそれを振り払おうとしたが、しばしば立ち止まらずにはいられなくなり、西へ進むのは容易にはかどらなかった。
ふと、背後に影がさし、声が聞こえた。
「ミラ」
振り返ると、全身が凍った。龍-だが口をきいたのはその龍の背にすわっていた少女の方だった。銅色の髪をなびかせて、少女は身軽に龍の背から飛び降りて言った。
「心配しないで。ギエナーは私の友よ。不思議(ミラ)の名を持つ夜の髪と星の瞳の、光と闇の娘。その双子の姉妹(きょうだい)、今は大地の守り手たるこの私、テラを忘れた?」
少女は姉妹(きょうだい)と名乗った相手の目を、緑を奥に秘めた黒い目をじっと見つめた。そうしているうちに呪縛の一部が解け、多くの疑問が少女の胸に押し寄せた。なぜ火龍が町を襲った? なぜ私はあそこにいたのか? 私は誰? なぜ何も思い出せない?
「火龍の呪縛よ」テラは少女の問いに対して言った。「わざわざそんなことをしていくなんて、あいつも先行きに不安を感じだしたのね。あなたをそれと知らずに恐れたのかもしれない。
「ところで記憶封じの呪文は私には解けないのよ。でも時の精霊、〈予告者〉ムルズィイムにならできる。あの人にも〈召集〉がかかっているようよ。一緒にに行きましょう。多分会えるから」
「精霊? 召集?」
「そう。人間は私たちのことを〈精霊〉とか〈大地の民〉とか呼ぶのよ。時の歩みの遅い者、とも。私たち自身は人間と世界の仲介者、あるいは仲裁者、というけどね。〈召集〉っていうのは私たちがしなければならないことがあると感じて、その場所に行くこと‥。とにかく乗って。話はそれから」
少女はためらった。呪縛がまだ完全に解けてはいないのだ。その様子を見てテラは言った。
「あなたは〈精霊〉よ。呪縛の一部を自分でたたき壊すくらいの力はない? 西へ行くべきだと思っているのでしょう? 〈精霊〉は行くべきだと思ったら、速やかに行かなくてはならないのよ」
少女は一瞬目を閉じて頭の中から目の幻影を追い払った。そして、意を決してテラの後ろに飛び乗った。
「行くわよ、ギエナー!」
テラが叫んで龍の首を軽くたたくと、青銅色の龍は二人の体重をものともせず、軽々と空に舞い上がった。
iii
夕暮れが迫っていた。二人は休むことにして龍ギエナーの背から滑り降りた。ふいに一人の老人が現れて、二人の傍らに立った。
「ムルズィイム」
テラははっとしてその名を呼んだが、老人はゆっくりもう一人の方に歩み寄ると、その肩に手を置いて言った。
「-ミラ」
時の精霊の言葉は記憶の扉を縛っていた呪縛を破り、少女の心にさまざまなことを一気に噴き出させた。
心が鎮まると、ミラは老人に頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いや、礼を言うことはない」ムルズィイムは手を振った。「これがわしの仕事じゃからな」
そしてはかり難い眼差しで、ミラを見つめた。
ムルズィイムはミラの話を聞いて眉をしかめた。
「ふむ。もうあの町にも手を伸ばしてきたか。そなたのいたあたりはまだ安全と思われていたので、誰もそなたに警告しなかったのじゃな」
「ほかの方は?」テラは老人に尋ねた。
「うむ、まもなく火と風が来るじゃろう。そしてそなたとわし、大地と時じゃ。四人も集まるのは異例のことじゃが」
「ミラは?」
「ミラはまだ嗣業を受けておらぬ〈子どもの精霊〉じゃ。子どもの精霊に〈召集〉がかかるのもまれだが‥つまりは四人のうち一人が欠け、すぐその嗣業を受ける者が必要になるということじゃ。そして欠けるのはおそらくわしじゃろう」
二人は声もなくムルズィイムを見つめ、その顔に疲労が浮かんでいるのを見とめた。ミラは昔聞いたことを思い出した。自分が生まれたとき、この人はこんなことを言ったという。
「この子は大いなる力と運命を持つであろう。‥だがわしにはこの子の道が見えぬ」
テラは重い沈黙を破って話題を変えた。
「ムルズィイム、火龍は一体どんな奴なんでしょう?」
「あれは金環位の魔法使いじゃ」
「金環位?」
ミラとテラは同時に驚愕の声を上げた。金環位は数少ない者にしか与えられない、魔法使いの最高の位なのだ。
「さよう。あやつは大きな力を持っておって、最高位の魔法使いになったのじゃ。若くして、な。それは別に悪いことではない。だがそれは人間の、誰もが持つ欲望を-物欲、権力、永遠の命などじゃ-、克服した後であるべきであった。あの者の師は早まったな。あやつは恵まれぬ生い立ちであったというが、あまりにも逆転した境遇に心のバランスが取れなかったこともあろう。
「あやつはしばしば龍の姿をとって人々を脅し、財宝や支配権を握った。従わねば耕地や家を破壊して見せしめとした。そして自らは老いによる死を恐れてこれを退けようと、時の流れをいじくっておる」
「時を?」ミラはつぶやいた。
「そうじゃ。そのような世の秩序を乱す者は止めねばならぬ。世をあるべきように保つこと、それが我らの務めじゃからな」
ムルズィイムは言葉を切って、ため息をついた。
「しかし人間の力は強いものよ。それは同時に、その心がもろいことも示しているのだがな」
iv
その晩、ムルズィイムはミラを呼んで言った。
「話しておかねばならないことがある」
ミラは黙ってうなずいた。
「良いか、時を扱う〈仲介者〉には実際的な力はほとんどない。我らは時の中を歩き回ってさまざまな出来事を見聞きし、人々に忠告を与えるのが主な仕事じゃ。言葉を巧みに使いこなす者であって、大地を裂き、炎を作り出す者ではない。もしそなたがわしの嗣業を受け継いだら‥」
「まだそうと決まったわけではありません! あなたが‥」
ミラはその言葉を遮ったが、老人は首を振った。
「いや、おそらく間違いない。わしの死とともに、そなたに時を扱う力が移るじゃろう。そのとき面食らわぬために言っておくのじゃ」
老人の確信している調子に、ミラは黙るしかなかった。
「そなたは意識の一部を過ぎ去りし方や未だ来たらぬ方に飛ばすことができるようになるじゃろう。未来は定まっておらぬゆえ、道は無数に存在する。その出来事が起こりそうなほど、その道はたどりやすい。過去の『事実』は一つであるが、その解釈が幾通りにもなるように、同様に起きたかもしれぬ道をたどってみることもできる。いずれも先へ行けば行くほど不確かになるが‥」
老人は息を吐き、それからミラの顔を真っ直ぐに見ると続けた。
「我らは戦う者ではない。が、他の者たちの力が敵わぬとなったら、我々にしか使えぬ力を使うのじゃ。かの龍も時をいじくってはおるが、時を完全に支配してはおらぬ。そして『これ』を手にしてはおらぬ」
老人はミラに近づくと、その耳に何事かをささやいた。ミラは目を瞠って老人を見返した。
「これは最後の切り札で、我らにとっても大変危険なことじゃ。わしもまだ試みたことはなく、今回これの探索をやったら心がもたぬかもしれぬ。だがそなたは若い。わしが斃れたらやってみよ。が、注意するのだぞ。決して意識のすべてを『それ』に向けてはならぬ。そして使ったらすぐに封印しておくのじゃ。くれぐれもな」
ミラには老人の疲労のわけがわかった。『それ』の探索は老いた身には耐えがたいほどの苦痛なのだ。ミラは我が身のことを考えてみた。自分にできるだろうか?
v
かの者が、火龍の姿で戻ってきた。
「今日もどこぞを焼いてきたのだろう」
火の使い手、ヒュペリオンは忌々しげにつぶやいた。ムルズィイムは一歩進み出ると火龍に呼びかけた。できれば穏やかに事を解決するためである。しかしその説得に、かの者は全く応じようとしなかった。
「では決裂だな」
ムルズィイムが言い終わるや否や、火龍は襲いかかってきた。
四人の精霊は火龍の吐く炎を避けながら、それぞれの方法で戦っていた。飛ばされる火炎弾、吹きすさぶ強風、舞い上がる砂塵と石つぶて。何の力もなく戦いに加われぬミラは物陰に身を潜めて見ていたが、ムルズィイムが意識の半ば以上をかの探索に使っているのがわかった。突然、老人が炎を避ける動きを忘れたように、呆然とした表情で立ち尽くすのが見えた。そのとき火龍が炎を吐いた。しかし老人は動かず、その姿は一瞬で炎に呑みつくされた。
その光景に続いて訪れたことに、ミラは一瞬圧倒された。自分の心にさまざまな物事が押し寄せてくるのを感じ、多くのことを見た。そしてあらゆるものの営みの言葉が、空間に満ち満ちているのを聞くことができた。そう、この『言葉』を読み取ることができるのも、時の精霊の能力の一つだった。
気づくと意識の一部が見ているのは過去の出来事だった。すでに起きた過去のことは見やすい。ミラは自分のやるべきことを思い出し、意識の半分を集中させて未来の幻影の中に分け入った。そして一つの道を見つけ出してそれをたどった。その道のたどりやすさにミラは眉をひそめたが、懸念を脇へ押しやって、ただひたすらにその道を先へと進んだ。やがて唐突に、ミラの意識は行き詰まった。その道に、もう先はなかった。そこには荒野があった。草一本なく乾ききった土地。見回すと廃墟があった。空っぽの廃墟。どこにも生命の気配は何一つなく、空気はそよとも動かない。すべてが死んでいた。ただ一つの言葉が、その世界に音もなくいんいんと鳴り響いていた。
それを聞くうちに、ミラの意識の『全身』は凍りつき、頭が割れそうになってきた。あわててその『言葉』を意識の底に押し込めると、ミラは現(うつつ)に駆け戻った。気を落ちつけると、ミラは隠れていた場所から出て、火龍の、魔法使いコルネフォロスの習い覚えなかった言語の一つで叫んだ。
「耳を閉じて!」
二人がさっと下がったが、残る一人、風の占い師と呼ばれるセイレンは前に飛び出した。
「援護する!」
ミラが自分の耳を閉じる前に、その男の声が聞こえた。そしてミラが火龍の傍らに飛び上がったとき、一陣の風が火龍の吐いた炎を消した。
ミラはその声を絞って、火龍の耳の中だけに叫びかけた。一つの時の果てにあった、滅亡の言葉を。
我に返ると、額に金の環をはめた、一人の男が焼け焦げた草の上に倒れていた。ミラはその男を見て哀れに思った。その心を曲げるきっかけとなったのは、その力とは裏腹な貧弱な容姿からの劣等感だったのだと、今は知っていたからである。
ミラは援護してくれた風の精霊の青年に礼を言った。まもなく一人の精霊の死を悼み、一人の〈大人の精霊〉の誕生を祝うために、たくさんの精霊たちが集まってくるだろう。だがミラはそれを考えてはいなかった。心の奥底に封印した一つの言葉、それの響く世界に至る道のたどりやすさにこころを悩ましていた。ミラは自分の〈仕事〉を自覚した。我らの務めは世の乱れを正し、あるべきように保つこと。あのような結末にならないために。
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このシリーズのメインキャラ、女の方。
肩ぐらいまでのストレートの黒髪、目は金色がかった銀色、というイメージで。
ストーリーが青臭いだけでなく、やっぱりいろいろぎごちない気が。
この話に登場するキャラクターの名前の意味と由来。必ずしも正確な発音・意味ではないこともあります。
ミラ:不思議(鯨座オミクロン星)
テラ:大地(ラテン語)
ムルズィイム:予告者(大犬座ベータ星)
ギエナー:翼(白鳥座エプシロン星、烏座ガンマ星)
コルネフォロス:黄金の赤(ヘルクレス座ベータ星)
ヒュペリオン:ティターンの太陽神・光明神(ギリシャ神話)
セイレン:海にいる歌う女怪(ギリシャ神話)
シリーズ番号(18)(動乱+170年)
「FANTASIA」第3号(1983.2.10)初出に加筆修正。
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